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大先生(元院長)のブログ

我が子育て

 致知別冊「母」2024を読んだ。今回のテーマは「母の力 子育ての人間学」であった。
子育てと聞くと私は失格で黙る以外にないが、この本ではいろいろの人が子育てに工夫を凝らしれおられる。
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 第2章「母の力」の中で「幸せに生きる言葉の力」と題して俳優の木村拓哉氏の母親 木村まさ子様が書かれていた。
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 彼女のプロフィールは昭和25年東京都生まれ。20歳の時に結婚し、22歳で長男・拓哉さんを、29歳で次男・俊作さんを出産。現在は「言の葉語り」として講演で全国を回り、朗読会にも力を注いでいる。子供の心に届く言葉を親が語りかけることや自尊心を育むことがいかに大切かを伝えている。NPO法人「エフ・フィールド」理事として「いのちの授業」の活動にも協力。幅広く活躍されている。
いかにして現在の活動をするようになったのかその切っ掛けの一部を転載します。
 「かく言う私も、自己肯定感の低い時がありました。私は昭和25年生まれです。当時は今と違って、結婚して嫁に入ったら『いつでも遊びに来ていいが、二度と帰ってくるな』と父に言われる時代でした。それだけの覚悟を持て、という意味だったと思います。
また、嫁いだらその家に染まるというのが当たり前で、『私はこう思う』と軽々しく言えない時代でした。
 夫は猛烈社員で朝早くから夜遅くまで仕事で家にいない。対等に話し合う時間がない。それを仕方ないと愚痴一つ言わずに受け入れていたものの、もやもやしたものがぬぐいきれない。私の性格というか、私の魂が『それじゃないだろう』と言っているように感じるわけです。
 葛藤を抱えて仕事を続けるうちに腸炎を患うなど体調が悪化していきました。そんなある日、友人に誘われて、癌や難病の治療を専門にしている水上治先生という方の講演を聴きに伺いました。
 いろいろなお話の中で、『人のため、夫のために癌になる必要はないんです』という言葉がズシリと心に響きました。先生がそう表現するというのは、身近な人に対する不平不満が重なったり、自分の気持ちを素直に伝えられなかったりすることが病に繋がっているのかなと漠然と思いました。
 それからというもの、『自分を大事にするとはどういうことか』について意識が向かっていくようになり、同時に不思議なことに、出逢う方々や入ってくる情報がどんどん変わって行きました。
 これまで自分のことを一番後回しにしてきたけれども、まず自分自身を認めて大切にし、自分で自分を愛する、慈しむ。例えば、きょうも朝、目が覚めて生きていること。寝ている間も肺が呼吸をし、心臓が血液を送り、細胞が働き続けているのは、自ら意識的に行っているわけではありません。そのようなことを重ねてみた時に、私たちは大いなるものに生かされている。本当にありがたいなと気づくようになったのです。
 そうやって自分の身体や存在に『ありがとう』や『嬉しい』や『大好き』といった言葉掛けをしているうちに、自分自身が喜ぶのはもちろんのこと、私に命を繋いでくれたご先祖様が一番喜んでくれるんじゃないかと思い、ものすごく生きる力をいただきました。」とあった。

 ところで私も家内も昭和22年生まれで、木村様と同じ時代である。この時代、多くは父親が働きに出て収入を得るが母親は家庭にあって家事と育児に専念するスタイルが一般的であった。両親もそのスタイルであったから私も何も考えずにそのスタイルを通した。息子達が生まれたころ私は日立製作所で猛烈社員として働いていた。そのため育児はほとんど家内任せで、子供が夜泣きをすれば抱っこして外に連れ出して寝つくまで家の周りを歩き家内の負担を少し和らげる程度で、たまの休みは親子で出かけることはあっても本当に家内におんぶに抱っこであった。
とりわけこどもが4歳と2歳になったとき私は会社を辞めて歯科医師になるために大学に入り直した。その時の入学金、学費、生活費は家内の親戚からお借りしての状態で、絶対に留年しない、国家試験には一発で合格しなければならないと悲壮感で過ごしていた。その為、家内は冬休み正月でも朝早くから近くのスキー場に子供二人を連れて行き、私の勉強を邪魔しないような環境を造ってくれたりしていた。そういう意味で子育てに関しては家内に頭が上がらないし本当によくやってくれたと思う。
心の中におそらく木村様と同じような葛藤もあったであろうし、そのことに気がつきもしないし、それをどの様に克服したのかも解らない。本当によく頑張って育ててくれたものと思う。
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 この記事の中で木村様は「上皇后陛下・美智子様が浩宮様(現在の天皇陛下)をご出産された時、『お預かりし、お育て申し上げます』おっしゃっていましたが、そのお言葉が甦ってきて、たとえ自分が産んだ子供であっても、それは自分の子供じゃない。子供は神様からの預かり物だと捉えるようになりました。」と書かれている。おそらくご子息を育てられる時その気持ちでもって育てられたのではないだろうか。
 最近のニュースなどを見ていると我が子に暴力を振るって死に至らすような事件が報道されているが、子供さんを神様からの預かり物だと皆が思えるようになるとこのような事件もなくなるのであろう。
本当に考えさせられる特集記事であった。

2024年08月25日

札幌出張

 この夏札幌に2回出張があった。1回目はコロナの時期を除いて30年くらい続いている会議である。私は北海道医療大学後援会中四国支部長を拝命していて、この支部長会議が毎年この時期にある。この会議では大学の状況や今年度の入学試験受験者数、入学者数の推移などの報告を受け学生達の生活ぶり、各学部の国家試験対策の状況などの報告を受ける。また10月には全国15の会場で地区別懇談会が開催され各学部の教授が手分けして出かけご父兄と直接面談され学生の生活振りや成績に付いて懇談される。広島での地区別懇談会には私も出席してご父兄とお話をし、何かあればアドバイスなどをさせて頂く。
 支部長会議後、懇親会があり、理事長をはじめ学長、各学部長の先生方や大学の理事の先生方も出席されていた。理事長からは2028年の大学の北広島市移転計画について話があった。来年からはいよいよ工事も始まるようだ。
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 翌日15:00発のJALで帰ることにしていたのでホテルの近くの北海道庁の建物を見に行った。昨年と同じで、工事中のため赤煉瓦の建物を描いたシートで覆われていた。蓮の咲いている池などを見たあと大通公園を散歩がてら歩いてみた。
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 丁度花フェスタの最終日であったが色いろのガーデニングなどがあり観て楽しんだ。
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 そして7月27日にも札幌に出張した。これは北海道医療大学歯学部同窓会の理事会出席のためである。私は2017年から同窓会の副会長に就任したことによるが、就任した頃は春と夏に年2回の理事会が札幌で有り出張していた。しかしコロナの時期はZOOMでオンライン会議となっていたが、昨年から夏だけ対面という方式に変更になった。今年は同窓会設立40周年で10月には40周年式典がある。今回の理事会でもその記念式典の経過報告などがあった。概ね問題なく準備が進んでいるようである。
 翌日は同級生で千歳で開業しているU君と会った。毎年会っているが、昨年は日ハムのエスコンフィールドの見学に連れて行って貰った。今年は私をどこに連れて行こうかと思案していたようであるが余市に連れて行ってくれた。北海道に住んでいたが余市は積丹の神恵内にキャンプに行ったとき通り過ぎただけの街でであった。
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 U君が余市を選んだのは宇宙飛行士の毛利衛氏が余市出身であるため、余市宇宙記念館があること、またNHK朝ドラの「マッサン」で有名なニッカウヰスキーの工場があることなどを考慮したとのこと。まず記念館に入りいろいろの展示物を観た。
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 小惑星探査機「はやぶさ」1/1のモデルや「はやぶさ2」が岩石を持ち帰った再突入カプセル、1/20の宇宙ステーションの模型、などを観た。展示場の横の売店に宇宙ステーションでも食べられているパンの缶詰などが売られておりU君が買って渡してくれた。
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 隣の敷地にはニッカウヰスキーの工場があった。工場見学は前もって予約をしないと見学できないとのこと。工場横の展示場に行くとウヰスキーの製造工程などの展示があり熟成年代別にウイスキーが透明の瓶に詰められて展示されており年代物ほど濃い色になっていた。また試飲コーナーがあったが、広島空港から家まで車を運転して帰らなくてはならないので残念ながら試飲はパスした。
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 そして13時過ぎに空港まで送って貰い別れた。
 前回もそうであったが梅雨前線の影響で飛行機の出発が遅れた。窓からは一面雲しか見えなかったが能登半島付近で少し眼下に海が見えてきた。若狭湾では天橋立を見る事が出来たが中国山地を横切る頃は入道雲がいっぱいあった。
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 そうこうする内に海が見えてきたら何と尾道水道である。通常飛行機は東側から空港にアプローチするため私の診療室の少し北側が飛行ルートになっている。今回は風の関係か西側から空港に入るようで、飛行機は向島と因島の間あたりを飛行しているようであった。
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 尾道水道を見ていると「尾道大橋」と「しまなみ海道」の「新尾道大橋」とが並んで見えた。また少し行ったところでは尾道商業高校のグランドや吉和小学校のグランドも見えた。
そして予想通り東広島市西条でUターンして無事広島空港に着陸した。

2024年08月05日

初めてのトルコ旅行 PART 8

 5:30起床、トランクを部屋の外に出し朝食後8:00にホテルを出発。まずトルコ石の宝石店に寄り見学。小学校5年生の孫息子がトルコに行くと言ったらトルコ石を買ってきてくれと言うので手頃なのがあるかと見て回ったが、小学5年生に買って帰れる様な物は無い。冗談に「トルコの石」だと言ってその辺に転がっている石を持って帰ろうかなどと家内と話したりした。結局孫息子は齊田家の唯一の総領孫なので家内と相談をし、家内が私の母からもらっていたトルコ石の指輪を渡すことにした。
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 その後バスにてトルコの首都アンカラに向かう。一昨日来たシルクロードを逆に向かって走る。途中、トルコで2番目に大きい大塩湖「トゥズ湖」に寄る。このトゥズ湖に塩の層が出来るのは夏場7月から9月頃の期間だとの事。しかし湖畔の砂地が少し白くなっており塩が析出しているようだった。
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 駐車場の横に大きな店がありそこでチョコレートや「目玉」グッズと言われている『ハイカルナス』をお土産としてまとめ買いをした。その後一路首都のアンカラに向かう(150km/2時間)。
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 ところで首都は世界的に有名なアンゴラ山羊と毛で知られるアンカラで、20世紀初期においては人口16,000人の小さな町であった。1919〜1922のあいだの救国戦争の際、イスタンブールが敵に征服されていたことや、戦略上の理由から重要視され、1923年の共和国宣言の後には首都に制定されている。現在は580万人(2023.12.31)の人口を抱えるトルコの第二の大都市である。
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 アンカラに到着してまずアタチュルク廟に向かう。この廟にはトルコ建国の父ムスタファ・ケマルが眠っている。そしてこの廟は1953年に完成し、現代のトルコ建築物を代表する傑作との事。軍人ムスタファ・ケマルは1923年10月、トルコ共和国の独立を宣言し、スルタン制の廃止など近代化への基礎を築いた。トルコ国民は彼をアタチュルク(トルコの父の意味)とよぶ。入り口には墓を守る衛兵が微動だにしないで立っていた。この衛兵は1時間ごとに交代をしている。
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 赤い服を着た一団や子供達を含む一団などが多く訪れていた。それだけ国民の多くが彼を尊敬している証だと思った。
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 1.5時間の自由時間がありこの丘からアンカラ市内を一望し、別の建屋でアタチュルクが使用していた車が補修されて展示されていたので見学した。
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 廟の前のカフェで全員集合しバスの駐車しているところ(実際は路上駐車)に歩き始めたら急に雨になり、しかも夕立のような大粒の雨である。ツアー仲間の人たちは急いでバスの止まっているところに向かうが私は家内の足が悪いので少し前を歩きながら家内を気遣い、しかもツアー仲間の人達が行く方向も注意しながら歩いていた。しかし家内に取っては気に入ら無かったらしく文句を言われた。気遣っていなければツアー仲間と一緒に先にバスに乗り込んでいただろうに、途中添乗員のGさんが遅いので心配して迎えに来てくれた。
その後バスにてアンカラ城の車窓観光に向かう。途中ロータリーになっているところに戦勝記念碑が建っていた。上部にアタチュルクが馬に乗っている像、下に2人の兵士、一人の兵士は友人を戦線に呼び、もう一人の兵士が戦線を監視している像。そして独立戦争中のトルコ女性の貢献を表す物として女性が砲弾を肩に担いで運んでいる像が配置されていた。
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 その後アンカラ城の下に来たが車窓から丘の上のアンカラ城の塀を見た。アンカラ城は7世紀に造られた要塞で丘の上に有りアンカラの街を一望できるとのこと。
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車窓観光を終えアンカラ空港に向かう途中、夕食の「チキンケバブのトルコ風ブリート(ドゥルム)」を受け取るためにレストランに立ち寄る。
 アンカラ空港到着後チェックインする。添乗員のGさんが色々手伝ってくれた。ここでトランクを預けたがこれはそのまま関空まで届く事になっている。
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出発までラウンジで過ごしたが先ほどもらった夕食のドゥルムを食べた。国内線のラウンジのためアルコール類は置いて無く残念ながらビールはお預け。
待っている間も夕立があった。
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 19:00のアンカラ発ターキッシュエアラインズでイスタンブールに向かい20:10頃に到着。まだ外が少し明るいのには驚いた。
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 その後午前1時過ぎまでラウンジで過ごし搭乗口に向かうが距離が有り15分も掛かった。ほぼ2時に離陸し、出発後1時間ほどで食事(朝食)が出る。ビールを飲むが丸1日振りである。4時過ぎに寝る。実に23時間近く起きていたことになる。睡眠導入剤を飲んで寝たが3時間ほどで目が覚めトイレに行きまた寝る。10時(トルコ時間)過ぎに目覚める。すぐ昼食が出る。TV画面で飛行ルートを観ながら過ごす。
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 日本時間18時半頃、無事関西国際空港に到着。トランクを受け取り1階のクロネコヤマトで宅配の手続きをして関空を後にする。20:30頃新大阪に到着。21:30の「こだま」に乗る予定にしていたが21:13「のぞみ81号」に乗って福山駅で在来線に乗り替える方が早く帰れるので「のぞみ」の自由席に乗り込んだところ満員で車両の中程に立ったまま出発。ところが家内の横に座っていた男性が新神戸駅で下車したため家内は無事座ることができた。そしたらなんとその横に座っていた20代と思われる女性が立ち上がって席を譲ってくれた。おかげで私も座ることができた。年寄り二人が疲れた顔をして立っていたのであろう。それにしても有り難かったし、今時若い人がその様な行動を起こしたことに驚き、日本もまんざらではないと思った。その彼女にどこまで乗車するのか聞いたところ広島だという。その彼女も岡山駅で再度座れた。福山駅で降りるときにしっかりお礼を述べた。福山から尾道まで在来線で帰り、尾道駅のタクシー乗り場にたまたま1台のタクシーがいたのですぐ乗って帰れた。丁度23時を過ぎたところで家に帰り着く。郵便受けは満杯、インスタント系の物を食べ風呂を沸かして入浴。寝たのは5月27日の1時を廻っていた。
疲れたが楽しい思い出深い旅であった。 

2024年07月12日

初めてのトルコ旅行 PART 7

 今日は終日カッパドキア観光である。昨日からの雨で残念ながら気球ツアーは中止された。前もって一部ツアー代を払い込んでいるがどこかで払い戻しがあるだろう。まずバスにてエセンテペにある3本のキノコ岩で有名な「親子岩」別名「三姉妹」の岩を観に行く。
カッパドキアの地層は地上で見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「浸食期」において、自然の持つ相反する二つの作用が作り上げた作品と言える。「るるぶトルコ」に図解が載っていたので掲載します。
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 まるでキノコのような格好の岩で、三姉妹の頭の部分は焦げ茶色で胴体の部分は白っぽい岩で出来ており、この頭の帽子の部分は玄武岩で胴体の部分は凝灰岩である。玄武岩下部の凝灰岩上部は柔らかく浸食されやすい。浸食は今も続いておりこれから何百年か何千年か後には浸食がさらに進み。帽子の部分が転げ落ちてしまい胴体だけになる恐れがある。現にそのような岩も多く見られたそれらは。三角形の岩となって残っている。
 次に「ピンクの谷」と言われる「ローズバレー」にいく。ここは岩に酸化鉄を多く含んでいることから岩が少し赤みを帯びている。そのため谷が夕日を浴びて真っ赤に染まることからこの名が付いたとか。ただ残念ながら我々が訪れたのは午前中でしかも曇っていてその光景は見れなかったが、岩が波を打っている様は面白いと思った、
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 次に「ギョレメの谷」に行き、そこにある洞窟住居の一般家庭を訪ね部屋に上がらして貰い紅茶をいただきティータイムとなる。ご婦人がそこでの暮らしについて説明をしてくれた。何が不自由かとお聞きをしたところ、用を足すのに外の玄関脇のトイレに行かなくてはならないこと。また世界遺産なので自分の家であっても勝手に改築など出来無いことを言われていた。
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 さらにトルコでは絨毯は工場で織るよりも家庭で時間をかけて織るのだという。現に壁際には織りかけている絨毯があった。また床に敷いている絨毯は代々この家で作ってきたものだという。絨毯はただ単に横糸、縦糸の問題では無く、模様を織るために時間が掛かるとのこと。40分くらいお邪魔した。そこをでて少し上に行ったところにお土産店があってご主人はそこの店主とのこと、その土産店で家内と二人帽子を買った。
 次にカッパドキアの最高所で巨大な岩山をくり抜いて造られた要塞のあるウチヒサールからの景色を見、そして鳩の谷に向かう。ここの人達は昔からブドウ栽培をしており鳩を飼いその糞を肥料として利用してきた。また卵は食料とし、殻は教会の壁に描かれているフレスコ画を描くための漆喰として利用してきた。
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 今では観光客が餌をまくので鳩がよってくるが雀もやってきておこぼれを頂戴していた。
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 その後トルコ絨毯店によってトイレ休憩とショッピングタイムとなった。色々絨毯について説明を受ける。絨毯を制作することは大変な仕事であり、高いものと安いものとの違いなどについて説明を受けた。中には天然の蚕の糸でしかもトルコの人間国宝のビュユカシュク氏が織られたものは2.4*2.0mで1200万円もするとかびっくりである。
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ところで今日の天気は曇ったり雨が降ったりであったが絨毯店を出たときアラレが降ってきたのには驚いた。
 その後アヴァノス地区に有る「ビズィム・エヴ」レストランにいき昼食となる。
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カッパドキア名物「テスティケバブ」であった。これは壺の中に野菜と肉が入っていて火が付いたままテーブルまで壺を持って来てくれた。その後火を消し、壺の中身をご飯にかけてたべるが一種のカレーライスのような感があった。
 昼食後、バスにてギョレメ野外博物館に行く。途中「赤い川」の名前をもつトルコ最長のクズルウマク川を渡る。この川から取れる赤土と粘土を用いた陶芸がヒッタイト王国時代から現代まで続いていると添乗員Gさんから説明を受けた。途中の山の断面には赤い土が見える。
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 このギョレメ野外博物館には多くの教会がある。「るるぶトルコ」の説明によると、『イスラムの圧迫から逃れるため、9世紀頃からキリスト教徒は岩を掘って洞窟に教会や修道院を造ったと言われている。その中心となった場所がギョレメで、一帯には400〜500もの教会があったという。現在は約30の教会が野外博物館として公開されており、信徒が描いたフレスコ画などが見学可能である。』
 入場口にクズラル修道院がある。本来4っの教会からなるが2番目の教会の名前をとってそうよばれているとのこと。そこから坂道を上っていくと教会が連なっている。
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 綺麗なフレスコ画残っている教会は入場料がいるので無料の教会の中に入って観た。ただし入場料を払ってもフレスコ画の撮影は禁止とか。その代わり出口付近にフレスコ画の写真パネルが展示してあった。
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それにしても昔の人は宗教心が旺盛なのか良くもこんなに教会を造ったものだと感心する。
 その後バスにて「パシャバウ」にいく。ここではミニハイキングとして30分ほどの行程でキノコ岩が立ち並ぶ横を通りながら観光をした。
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 「妖精達の住家」は一つの岩から2本、3本とのびる複数の首に「帽子」被った格好をしており、ビザンチン時代に隠遁生活を選択した修道僧達の隠れ家でもあった。本当に色々な形状の岩がある。写真の岩は教会でありトルコと日本が共同で修復したと案内板が掲げてあった。
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他にも色々の形状の岩があり、珍しさと不思議さでお伽の国に来たような錯覚になった。
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また途中に軍警察(憲兵隊)の看板がありトルコ語と英語と日本語が書いてあった。 日本語で「ようこそ 私たちの地域でお会いできてとても嬉しいです あなたの平和と安全のために、私たちは電話としてあなたの近くにいます。 軍警察」と書いてあり驚いた。
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 次に「デヴレント」に向かう。ここにはラクダ、フクロウ、トカゲなどのユニークな岩が想像を膨らませてくれる事から「イマジネーション」の谷ともよばれている。
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ここでカッパドキアの観光が終わりいったんホテルに帰り夕食を済ませた後、洞窟レストランでのベリーダンスと民族舞踏のショーに出かけた。おつまみとお酒が出て飲みながら観賞した。
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明日はトルコ旅行最後の日である。続きはPART 8へ

2024年07月05日

初めてのトルコ旅行 PART 6

 朝5:00起床、バイキングスタイルの朝食後7:00にホテルを出発。バスにてまずコンヤに向かう。ここは13世紀セルジュクトルコの首都であり今でもトルコで一番面積の広い都市である。およそ410km/約6時間の行程である。道の両側に畑が広がり小麦が黄色に実っていたりした。高い山にはまだ少し雪が残っていた。それにしても本当に広いと思う。
 ところどころ小高い丘の上には風力発電の風車や、太陽光発電パネルなども見受けられた。食料問題やエネルギー問題ではおそらく日本は足下にもおよばないのであろうと思う。
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 途中10時半頃ローカルレストランで昼食となる。ビデと呼ばれるトルコ風舟形ピザで挽肉や、玉ねぎ、ピーマンがトッピングしてあったが、写真を取り損ねる、スープとビールだけしか写していなかった。
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 そこを出てコンヤにある、13世紀の神学者「メブラーナ」の尊称を持つジェラルッディン・ルーミーを始祖としたメブラーナ教の博物館に向かう。バスを降りて少し歩いたが通りには市内電車(トラム)が走っていた。
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 この博物館は当時の聖者が生活し研鑽を重ねてきた部屋が復元され、人形がその当時の服装をしてあたかもそこで生きているかの様にリアルに再現されていた。
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 また青い塔の下は始祖たちが眠るお墓になっていて、地上には始祖の棺や、他の聖職者の棺が飾られておいてある。その他使われていたコーランなども展示されていた。
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 また実演を観ることはなかったがメブラーナ教団発祥の地で旋回して踊ることで神に近づいていけると言われていたセマー(旋回舞踏)の人形がその様を再現していた。
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 ところでこの博物館に大勢の小学生(2〜3年生くらい)が見学に来ていて、我々を見ると何故か「こんにちは」と日本語で挨拶をしてくれた。驚きである。私も「こんにちは」と挨拶を交わした。しかしその他の日本語は知らない様で有った。
この博物館の隣りにセリミエ・ジャミィという壮大なモスクがあった。中には入らなかったが1570年にオスマン帝国セリム2世の命により建造されたモスクである。2本のミナレットをもつ、16世紀オスマン帝国時代の典型的なモスクで、コンヤでのイスラム教信仰の拠点となっている。
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 見学後一路カッパドキアに向かう。230km/約3時間の行程である。コンヤの街中を通っていたとき2010年にできた日本式庭園の入り口を窓越しに見た。また郊外には外国企業が進出しているようだった。コンヤを過ぎるとかって旧シルクロード呼ばれていた道が今では高速道路となってほぼ一直線の道が続いていた。窓から見える風景は道路の両側に畑が続いており、遠くに山などが見えていた。
 13世紀に「東方見聞録」を書いたヴェネツィアの商人「マルコポーロ」もこの道を通り風景を見ていただろう。当時は畑などなかったかも知れないが少なくとも山の形はほとんど変化していないと想像し、彼と同じ山を見ていることに驚いた。
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 途中スルタハンでトイレ休憩をしたがそのお店の前にかってのシルクロード時代のラクダの隊商宿キャラバンサライがあった。隊商宿は約30q〜45q(キャラバンが1日で旅できる平均距離)間隔で建てられていてトルコには100近く存在していたとのこと。     
休息後バスにてカッパドキア地方にある「カイマクル地下都市」に立ち寄る。
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3世紀半ばローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教徒の修道士がカッパドキアに移り住んだ。柔らかい岩をくりぬいて住居や教会を造り、ペルシャやビザンチン勢力の脅威から一時的に身を隠す場所を地下に求めた。部屋がそれぞれ狭い通路で繋がっていて、ワイン貯蔵庫や貯水池、台所、食料庫、換気口、井戸、教会、さらに外敵からの侵入を防ぐための岩扉があった。
なお私たちが見学した地下都市は地下13階建てで地下4階までを見学した。
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 その後ホテルに向かう。1日で600km以上の移動をした。ホテル到着少し前から雨が降りだしたが、添乗員のGさんから明日の気球ツアーは中止と告げられた。残念である。
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ホテルは岩をくり抜いて作られた洞窟ホテルである。食事はバイキングスタイルでビールは500ml1本が375トルコリラには驚く。日本円で2000円近い。食事中雨と雷が鳴り通しであった。ホテルの風呂場のシャワーの設備は使い勝手が悪かった。
続きはPART7へ

2024年07月01日

初めてのトルコ旅行 PART 5

 朝5:00起床、バイキングスタイルの朝食後7:00にホテルを出発。バスにてエーゲ海最大の遺跡が残るエフェソスへ向かう。およそ250km/約4時間の行程である。ホテルの入り口には宿泊しているお客様の国の国旗が掲揚されているが中央にあるトルコ国旗は昨日我々が到着したときは半旗であったが今日は普通どおりに掲揚されていた。添乗員のGさんによれば19日にイランの大統領がヘリコプター事故で亡くなられた事によるトルコ政府の弔慰であったとのこと。
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 1時間ほど走ったところで1回目のトイレ休憩があった。そこのコンビニで何と日本の巻き寿司がパックされて売られている事に驚いた。
休憩後バスにて先に進むと、革製品製造会社兼お店で2回目のトイレ休憩をした。そこで革製品のファッションショウを見る。モデルの他に我々観光客の中から何人かが呼ばれて、にわかモデルになりショウを盛り上げていた。その後お店で革製品のコートやブレザーなどのショッピング案内があった。家内にどうかと勧めてみたがノーサンキュウとのこと。何人かは購入されたようだ。
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 その後バスにてローカルレストランに移動。今日の昼食はトルコから世界中に広がった名物料理・シシケバブ(エーゲ海地方セルチュク村のシシケバブはチョップシシと呼ばれている)であった。竹串に刺した一口サイズのお肉の串焼きは、まるで日本の焼き鳥のような感じであった。
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食後バスにて移動やっとエフェソスに到着。 エフェソスは東西交易の集積港として栄えた。紀元前2世紀から紀元後2世紀頃の建造物が並び保存状態も良い。南側の出入り口から北側の出入り口に向かうルートで見学を行う。
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 入ると広場がありまず右手にアーチが今も残る2世紀に建てられたヴァリウスの浴場がある。左手にすすむと小規模な音楽堂似たオデオンがあり、1500人を収容し劇やコンサートが上演されたほか、議会所としても使われたという。
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 オデオンの横にはエフェスの市庁舎「プリタネイオン」があり、紀元前3世紀の建築からビザンチン時代まで増改築が行われた。竈の神で、国家体制の鎮護神として崇拝された、ウェスタ女神の聖火を灯し続けていた。
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市庁舎から下るとメインストリートのクレテス通りに繋がる道にでてくる。さらに進むとクレステ通りの入り口を守る半神半人の英雄ヘラクレスが彫り込まれた門が有りここからクレステ通りが始まる。この門のすぐ上のドミティアヌス広場にある、勝利の女神ニケの飛んでいる姿が彫られた三角形のレリーフは、このヘラクレス門の上部を飾っていたもので、4世紀前半に造られたとみられています。ちなみに勝利の女神ニケはあのナイキのロゴの由来となっている女神でもあります。
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 途中建物跡の前に置かれていた石の彫刻を見る。多分そこにあった家の看板か何かではないのだろうか。さらに石造りのアーチ型のくぼみ遺構は商店で有ったとのこと。
さらに進むと紀元1世紀にトラヤヌス帝に捧げるために建設された泉「トラヤヌスの泉」があり、かってその正面には皇帝像が置かれ、その足下から水が流れ出ていたといわれる。現在も足の一部が残っている。
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さらに進むとハドリアヌス神殿がある。138年頃、エフェス市民クインティリウスが皇帝ハドリアヌスに献上した神殿。2世紀前半のコリント式神殿で小規模ではあっても壁の装飾と浮き彫りは唯一無二の美しさといって良い正面の2重のアーチには、手前に女神ティケ、奥にはメドゥーサのレリーフが見られる。
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 神殿の横の細い道を入ったところにある公衆トイレは、古代、人々が隣同士、隔てもない開放的な空間で並んで用を足っした事実を物語って興味深い。しかも水洗便所であった。
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 そこから元のクレスタ通りに出てくると目の前にセルシュウス図書館が見えた。2世紀の初頭、エフェスを首府とするアジア州の総督だったセルススの功績を記念して、息子が建てた図書館。発掘中にほぼ全ての部分が見つかった事から、過去の壮大な姿そのままに、今私たちの前に立ちはだかっている。コンポジット式の柱が美しい建物正面には、知恵や美徳を象徴する4体の女性像(複製・オリジナルはウイーンの博物館に有る)が並ぶ。2万冊の蔵書を誇ったという。
 ここから右は大理石通りが始まる。先ほどの図書館の横は娼婦宿で2階建ての建物で内部のサロンには愛と美の女神像があったとのこと。
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この大理石通りを大劇場に向かう途中。大理石の上に娼館への案内図として足は方向、十字は十字路女性は娼館、ハートは愛を表していると言われる謎の案内図が大理石に刻まれている。客を娼館に案内するためのものだったと言われているが詳しい事実はわかっていない。
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 さらに進むと商業アゴラとも呼ばれる下のアゴラがあり奴隷売買をはじめとするあらゆる商取引が行われていた。大理石通りの終点は大劇場である。24000人を収容したトルコでも最大級の円形劇場で紀元前3世紀に建築され歴代の皇帝により増改築が行われた。客席はパナユル山の斜面に寄りかかるように設けられて、音響効果も抜群だったという。その後、劇場体育館の横を通り北口出口に出る。
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 バスに乗り次の観光地パッカレムへ向かう。およそ180km/約3時間の行程である。
目的地近くになると畑の向こうの小高い丘の途中に白い帯状のものが見えてきた。
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「るるぶトルコ」の説明によれば『パムッカレはトルコ語で「綿の城」を意味するが小高い丘の斜面を覆い尽くす純白の石灰層が最大の見どころ。その正体は斜面を流れ落ちる温泉の石灰成分が沈殿、凝結することにより形成された石灰華段丘。その規模は幅3km、高さ100m、厚さ300mにも及び、水をたたえる無数のプールが幻想的な景観をつくり出している。朝は真白く、夕日を浴びると赤みを帯びるなど、時間とともに刻々と表情を変える神秘的な風景を様々な角度から観賞したい、』とあった。上の石灰棚の写真はトルコ航空の広告からスクリーン・ショットした画像でこんなにも美しいのかと期待していた。
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 入場口に到着後、入場して少し歩くと古代都市ヒエラポリスの南のビザンチン門があり、ここは古代のヒエラポリスの遺跡があった。その遺跡の中を歩いて行くとパッカレムの棚田が見えてきた。
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 しかし棚田に水はなく真っ白の光景に驚く。ただしわずかに足湯が許されているところだけ少し水があり観光客が足湯を楽しんでいた。靴を脱いで足湯につかった。
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足湯の湯はそれ程高くなくぬるま湯程度であった。
 その後ホテルに向かう。今日のホテルも温泉と温泉プールがあり、日本から持ってきた水着を着て10分ほど温泉プールにつかった。泳いでみたが何年も泳いでいなかったせいか10mも泳げないビックリ。
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2024年06月27日

初めてのトルコ旅行 PART 4

 朝5:30起床、バイキングスタイルの朝食後8:00にホテルを出発。バスにてトロイに向かうおよそ330km/約5時間30分の行程である。トルコのヨーロッパ側、マルマラ海に沿って移動する。途中のトイレ休憩はガソリンスタンドとコンビニが一緒になったところである。イスタンブールを離れると農地が続く。そして所々にトルコ国旗があるが、今日は何故か国旗が半旗で掲げてあった。だれか偉い人がお亡くなりになったのかと思った。
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 アジアとヨーロッパを分けるダーダネルス海峡にかかる全長3563mの世界最長の吊橋「チャナッカレ大橋」を渡りアジア大陸に入る。ダーダネルス海峡は多くの船が行き来していた。
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添乗員Gさんの話によればこの海峡では第一次世界大戦のとき英仏連合国軍がトルコに攻め込もうとしたが阻まれ11ヶ月(1915年2月19日〜1916年1月9日)の戦闘の後トルコ軍が勝ったことなどをトルコ人の彼女は少し誇らしそうに話してくれた。
その後昼食はトロイに行く途中のホテルのレストランで取り、昼食後バスにて移動しトロイ遺跡のあるヒサルルクの丘に到着。
 入り口を入ったすぐの所(地図の@)に遺跡のシンボルであるトロイの木馬のレプリカが置かれているのだが現在修復中でその姿を見ることはできない。もっともこの木馬が修復中という情報は今年のはじめに知った。というのも2019年にハワイ旅行に行ったときの添乗員Sさんと家内が時折LINE(ライン)で連絡をしあっていて、彼女が2月にトルコツアーの添乗員でトルコに行ったら木馬がなかったと写真を送ってくれていた。
 高校時代から一度は行ってみたいと思っていたトロイに来たと思うと感無量である。但し行きたいと思っていただけで実はトロイのことは何も知らなかった。
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見学ルートにしたがって取り付けられている木製の板の上を歩きながら遺跡を見学していく。添乗員のGさんがこのトロイがある「ヒサルルクの丘」について説明をしてくれた。
 トロイ遺跡は青銅器時代の紀元前3000年頃からローマ時代の西暦500年くらいまでの間戦争、火災、地震などで何度も倒壊しその都度瓦礫の上に新しい街が築かれていった。近年の発掘では9層に及ぶ古代都市の痕跡が明らかになった。元の地表から見れば15m以上たかさになっている。私はそんなことは全く知らず、トロイ戦争の後廃墟となって放置されたままになっていたのだと思っていた。そんなに同じ場所に何度も都市が再建されていたとは思いもせず驚いた。
 ギリシャ神話ではこの地に存在した都市はイリオスやトロイアの名前で呼ばれていたこと、現在ではトロイの名称で広く知られている。紀元前6世紀のホメロスが「叙事詩」として「イーリアス」と「オデュッセイア」や書いたと言われているがこの「イーリアス」に出て来るトロイは神話上の伝説都市と思われていた。子供の頃「イーリアス」を読んでこれは神話なんかでないと思い続けたのがドイツ人のシュリーマンである。
 1870年に彼は私財を投じてこのヒサルルクの丘を発掘し、都市遺構や数々の財宝を見つけ出す事に成功したことからトロイが実在したと証明された。但しシュリーマンは9層有る都市遺構の下から第2層がトロイと思い込んだがその後の発掘調査で現在では第6層(BC1300〜1180年頃)がトロイ戦争の舞台となったと見られている。
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 まず歩き始めてすぐに東の塔と城壁(第6市、BC1900〜1300年)の遺構(地図のA)が見えてくる。見事な石積みの城壁が続く。2つの城壁に挟まれた狭い通路の途中に門をもうけ、外敵の侵入を防いだ。トロイ最盛期の遺構の一つ。 石を積み上げた城壁に備えられていた東の塔。
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 次にアクロポリス内部に、城壁と平行して残る建物の遺構はメガロンと呼ばれている。1998〜99年に発掘された時点では、石の土台に建つレンガの壁が1.5メートル以上の高さで残されていた。2003年夏ここに保護用のルーフが取り付けられたので、今やオリジナルのレンガ遺構を壊す心配なく、メガロンハウスと城塞の壁が見学できる。
 ところでトロイの遺跡には建物は残っていない。そのため多くの場所で石の土台とか石垣とかレンガの壁しかなく、どれも同じように見えてさっぱり解らない。
 次にシュリーマンが初めて遺跡を発見した場所(第1市、紀元前3000〜2600年)を見る(地図のB)。発見当時、掘り進めた結果最下層の都市の遺跡が発見された。しかし掘り進めた結果、上にあった何層もの遺跡が破壊されてしまったとも言われる。 
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 案内板に9層の断面図の模式図あった。その横には同じように発掘した地層が残されていたが手前が第2層その上が第3層と案内板があった。添乗員のGさんはシュリーマンが発掘した物はことごとくドイツに持っていかれトルコには何も無いと少し悔しそうに話していた。
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 さらに進むと城塞の南東と南西にも立派な門が有ったとのこと。特に南西の門に続く急傾斜の石畳の道が設けられていた。その一部は修復されている。おそらくギリシャ軍が残した木馬はこの坂道を引っ張り上げられ城塞に入ったと考えられている。
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 さらに進むと聖域(第8市、紀元前900〜350年)と呼ばれている神々に供物を捧げた場所に来る(地図のC)。ここは生け贄の儀式に使われた場所で井戸と祭壇が並び、アレキサンダー大王もここで供物を捧げたとされる。第8〜9市時代のもので、当時はトロイ初のギリシャ都市であった。
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次にオデオン(第9市、紀元前350〜400年)と呼ばれる音楽や演劇、会議が行われていた小劇場の跡にくる(地図のD)。トロイ遺跡の中で最も保存状態がよく、ローマ時代に建てられたもので、当時は木製の屋根が付いており音響もよかったという。 かってはオデオンの他に大劇場もあったという。
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 さらに歩くと入り口近くのトロイの木馬の場所に戻ってきた(@)。ここで30分ほどのトイレ休憩と自由行動となった。トロイの象徴である木馬は紀元前1,200年、トロイ戦争の最中、退却していくアガメムノン率いるギリシャ軍が残した木馬にまさか兵が潜んでいるとも知らず夜襲を受けて陥落した。この木馬は1975年に復元され当時の大きさを再現していると言われていたが、木馬が揺れるようになったため修復を開始したらしい。
じっくりトロイの木馬を見たが足の大腿骨あたりに金属の補強板が取り付けてあった。
完成までにはもう少し時間が掛かるらしい。
 その後バスにて宿泊先のホテル「アドリナ サーマル ヘルス&スパ」に向かう(150km/約2.5時間)。途中の道路の中央分離帯には夾竹桃の花が咲いていた。
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 このホテルにはプールがありその前にはエーゲ海が広がり遠浅の砂浜が続いていた。この砂場に立つとエーゲ海から吹くマリンブルーの風が感じられる。おそらく夏には観光客でさぞかし賑わうのであろう。
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2024年06月22日

初めてのトルコ旅行 PART 3

 バスにて旧市街地にあるオスマン帝国皇帝の住居「トプカプ宮殿」に向かう。トプは大砲、カプは門を意味する。1472年コンスタンティノープルを制圧したメフメット2世によってイスタンブール市内で最も見晴らしのよい丘に建てられた。15〜19世紀にかけて、オスマン帝国の中心として国政が行われ、オスマン帝国歴代の君主スルタンとその家族たちがここで暮らした。
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 入り口でイヤホンガイドを渡されたが説明は添乗員のGさんがする。音声はよく聞こえた。帝王の門から入ると第一庭園がありそこをさらに進むと表敬の門をくぐり第2庭園がある。左手に正義の塔がありそこでは国政を取り仕切る会議が行われていた。また右手には厨房跡の建物が見えてくる。この厨房ではかって数百人もの料理人が4000〜5000人分の食事を作っていたと添乗員のGさんが説明してくれた。
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 さらに進むと第3庭園に出てくる。右手に宝物館があり右手にハレムが有る。ここで1時間の自由時間、集合はこの場所でと言われる。
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トプカプ宮殿の見所はハレムとスルタンの財宝を展示する宝物館が必見らしいが多数の観光客が並んでいて、観ていたらとても1時間の自由時間では無理と判断しさらに前方へ進むと第4庭園に出た。この一番先端からはボスボラス海峡、金角湾、マルマラ海が一望に見え多くの船が航行していた。
 家内はとても疲れたといい、集合場所に戻っていく。私はそこからメジディエ・キョシュキュの内部を観る。
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 それから第4庭園を左手に歩いて行くと宮殿の一番奥には、イズニック・タイルなの外壁が美しく、あずま屋の中では最も優雅で美しいと言われる「バーダーット・キョシュキュ」があった。さらにその横には海を望む黄金屋根のあずま屋があり金角湾が見渡せた。イスラム教のラマダンの時夕食を取った場所とのこと。
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 さらに集合場所に向かおうと思い歩いて行くと大きな赤いレンガの建物があり警察官がいた。聞くとここはハレムの出口なので入り口に回れと言われる。ハレムの隣りに武器の展示室があり見学。そして無事家内が待っていた場所にたどり着く。
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 そこではトルコ人の男の人が箒で庭園のゴミや落ち葉を掃いて清掃していた。その箒を見るとどう見ても日本の座敷箒にしか見えなかったので、「それは日本の箒ですか」と訪ねてたところ何とその人は日本のアニメ、「魔女の宅急便」の主人公「キキ」の如くその箒をまたいでにっこり笑顔を見せてくれた。あまりにも突然のことでびっくりするとともにこちらも笑顔で手を振った。まず日本の箒がトルコで活躍していることに驚き、多分機能性がよいのだろうと思った。そして日本のアニメがトルコにまで浸透していることに本当に驚いた。残念ながらそのパフォーマンスの写真はない。
 全員集合し、「スルタンアフメッド・ジャミィ(通称ブルー・モスク)」に向かう。
途中「アヤソフィア」の横を通る。歩きながら添乗員のGさんが説明をしてくれた。アヤソフィアの建物はビザンチン帝国時代の360年に建設され15世紀までキリスト教の教会として信仰を集めたが、その後オスマン帝国時代にイスラム教のモスクに改修された。20世紀にトルコが共和制に移行するとアヤソフィアは無宗教の博物館に転身したが2020年大統領の方針で再びモスクと姿を変えたとのこと。
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「ブルー・モスク」についても説明があった。「通常モスクには主の権威を示すために複数のミナレット(尖塔)が造られるが、このモスクには6本のミナレットがある。本来皇帝は4基、皇族は2基など決まりがあったが、アファメド1世が「黄金(アルトゥン)の」と命じたのを設計士が「6本(アルトゥ)」と聞き間違えたという逸話も残っている」とのこと。なお女性はモスクに入るときはスカーフをしなくてはならず家内は日本で購入して持ち歩いた。
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 大きなモスクで中央ドームを4つの副ドームが囲み、さらにその周りを2〜3つの小ドームが囲んでいる。それぞれのドームを支えるアーチには、赤や青を基調とした植物模様のフレスコ画が施されている。金文字で刻まれているのはコーランの1節。また中央のドームを支える柱は直径5m。巨大なドームの重さを支えるために丈夫に作られている。見た目が象の足に例えられている。周りのステンドグラスも260枚ありそこから注ぐ光と美しい照明の光で幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 ブルー・モスクを出るとすぐ横にローマ時代の競馬場跡があった。そこにはエジプトのナイル河畔の「カルナック神殿」からテオドシウス帝が移したオベリスクがあった。
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さらに歩いて地下宮殿に向かう。途中色々の銀行のATMが並んでいた。トラムが割合頻繁に運行していた。
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 地下宮殿は東ローマ時代に造られた巨大な地下貯水池で幻想的な空間が広がっていた。ここには各地の神殿から運ばれた柱で支えられており各列28本の円柱が12列で合計336本の柱が並んでいた。広さは縦140m、横70mでギリシャ神殿から運ばれてきたという神秘的な模様の柱は模様が涙のようであることから「涙の柱」と呼ばれている。また地下宮殿の最も奥にある2つの柱は土台部分に恐ろしい形相の顔が彫られている。良く見ると髪がうごめくヘビを表していることから、ギリシャ神話の怪女「メデューサ」を形取ったものと言われている。ヘレニズム時代の遺跡を石材と転用した為、そこにあった石像が柱の土台として使われた等と言われている。ただなぜ横向きや反対向きに置かれているかは謎とのこと。
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 その後バスにてグランドバザールに行く。添乗員のGさんの説明ではバザールの中は中央の道から枝わかれて幾本もの道が続くこと、また4000店舗くらいあるので横道に入るときは良く道順を確認して歩いてくださいとの注意があった。入り口の手前にあるお店屋さんでトイレ休憩をしてバザールの門から中に入る40分程の自由時間となる集合場所は先程のお店の前という、入ってお店をのぞき見してどの様なものがあるか見て歩いた。
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 ただし今買ったらこれから先ずっとそれをもって旅行しなくてはならないので、土産は最後のカッパドキアで購入するのが良いのかなと思った。門から300メートルくらい来たところで家内が「疲れてもう歩けない」というので集合場所にもどることにした。本当に歩くのがしんどそうなので家内の手を引きながらあるく。手をつないで歩くなんてそれこそ何十年振りかである。尾道では恥ずかしくて出来ないな。
 そこからバスにてオリエント急行の終着駅にあるオリエントエクスプレスレストランで夕食となる。
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オリエント急行は1883年10月4日にフランス・パリからトルコ・コンスタンチノープル(イスタンブール)まで走った。2009年に運行が修了した。
 アガサ・クリスティの小説「オリエント急行殺人事件」に登場するクラシカルな建物は1890年当時のままでステンドグラスがきれいな雰囲気のあるレストランで有った。
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 壁には当時の写真やら、訪れた有名人の写真などが飾ってあった。
 20時過ぎにヒルトンホテルに帰ってきた。22時過ぎに就寝。19時間以上行動したので本当に長い1日であった。
続きはPART 4へ

2024年06月15日

初めてのトルコ旅行 PART 2

 ダウンロードした空港内の地図を見ながら無事集合場所の「バーガー キング」に到着。まだ日本語ガイドは来ていなかった。しばらくしたらトルコ人の男性がやって来て「Oさんですか」尋ねられたが「齊田です」と答えたところ、「もう一つのツアーの方ですね、少し早く着いたのでまだ迎えが来ていません」と流暢な日本語で話してくれた。しばらくすると男女3人組の人が来た。きけば羽田から来たとのこと、漸くして私たちが待っていたお迎えの人が来た。彼は我々をホテルまで送ってくれる運転手さんであった。そうこうするうちに成田からの人達が来て10人となった。
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 運転手さんに日本円をトルコリラに替えたいと話したところ空港内に5つの銀行が交換所を開いているのでそこで替えてくださいと言われ替えた。レートは1リラ5.22円だった。バスには先ほど羽田からのかたがたも乗り込んでホテルまで行く。途中ホテル到着後のスケージュールが話された。私たち2人はホテルのロビーに9:15集合と言われ、ほかの方々は8:30集合とのこと。
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ホテルはヒルトンホテルで部屋は10階にあった。広い綺麗な部屋である。窓のカーテンを開けてみると大きなモスクが丘の上に見えた。ひょっとしてあれがブルーモスクでは無いかと勝手に想像した。
 9:15に1階フロアーに集合したら女性の添乗員Gさん来ていた。私たち2人のほかに15人がいてこれから一緒に行動するとのこと。このトルコ旅行には私たちの8日コースのほかに9日、10日コースがあるがこの方たちは私たちよりも1日早く来て前の日から観光が始まっている人、私たちと行動を一緒にした後さらに2日間観光する人など様々らしい。
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 まずバスにてクルーズ船乗り場に向かう。至る所にモスクがある。金角湾にかかる「ガラタ橋」を徒歩で渡る。この橋は旧市街と新市街を結ぶイスタンブールの交通の要で6世紀に最初の橋が架けられた2層式で、橋の上はトラムが走る珍しい造りで下階はカフェやレストランが並んでいる。橋の上では多くの人が釣り糸を垂れていた。橋の向こう側にはアタチュルク橋が見えた。そしてこのガラタ橋のたもとに、大きなモスクがあった。イエニ・ジャミィである。このモスクは1597年に着工したが完成までに60年以上の歳月がかかった。そのため「新しい(建設者)モスク」という意味の名前が付けられたとか。
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 エミノニュ桟橋で結構大きなクルーズ船に乗り込む。添乗員のGさんがクルーズのコースについて日本語で説明してくれた。ボスボラス海峡を北上し「7月15日殉教者の橋(以前は第1ボスポラス大橋と呼ばれていたが2015年のクーデター事件後この名前に変更)」をくぐり「第2ボスボラス大橋」でUターンするコースである。後、クルーズが終わっての集合場所を聞いた。
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 船の中は全く自由で好きなところから風景を見ることができた。ただし何も説明がなく、ただ景色を見ているだけで時折面白そうな建物などがあると写真に収めた。
帰ってきて「るるぶトルコイスタンブール」という観光情報誌を観ながら写した写真の名前が確認した。これが日本の旅行社がするツアーならば添乗員さんが前もって色々の資料を用意してくれて、その都度渡してくれるのでよく理解できたであろう。
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 私たちが乗船したクルーズ船の横に何かトルコらしい装いをした小さい観光船が泊まっていた。いよいよ出港。金角湾を出てボスボラ海峡に入ると右手がアジサイドで左手がヨーロッパサイドである。船はヨーロッパサイドを航行する。出発点から300m位移動したとき、少し高いところにガラタ塔やモスクが見えた。正にイスラムの世界にやって来た感がある。
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 またしばらく行くと大型のクルーズ船が停泊していた。船名は「Queen Victoria」である。
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 第一ボスポラス大橋のたもとに綺麗な建物が見えたが「オルタキョイ・ジャミ」で1854年に建設されたアブドゥル・メジト1世のモスクでオスマン・バロック様式、さらに進んで第2ボスボラス大橋のたもとに城塞が見えてきたが「ルメリ・ヒサール」で1452年にメフメット2世がコンスタンチノープル陥落のために僅か4ヶ月で建設してとのこと。
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 Uターンをしてアジアサイドに沿って航行。ボスボラス海峡の終点付近アジアサイドのウスキュダルの沖合にクズ塔(乙女の塔)が見えた。ウスキュダの沖合に浮かぶ石造りの塔でさまざまな伝説が残された塔で展望台からの眺めは絶景、ボスボラス海峡とマルマラ海側の入り口に位置し、かつては灯台や税関として使われたと「るるぶ」に説明があった。
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無事出発したエミノニュ桟橋に到着しクルーズを終わる。
 ところでクルーズ中もそうだが至る所でトルコ国旗を見る。写っている船に比べ丘の上の旗がいかに大きかわかる。また個人の家の窓にも国旗がつり下げられている。日本は正月元旦でもほとんど国旗が掲揚されていない。尾道市でも私が見るところでは市役所と消防署くらいしか常時掲揚されていない。トルコ人と日本人の愛国心の違いなのであろうか?
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 またガラタ橋を歩いて渡りガラタポートに有るレストランに行く。スープとサラダと鯖サンドイッチを食べる。ビールは旅行代金には含まれない。500mlが240トルコリラで大まかに日本円に換算するとおよそ1200円強である。今トルコは急激なインフレになっており、あらゆる物が高くなっているとのこと。そして円は安くなっているため我々観光客にとっては大ピンチである。
昼食後イスタンブール市内観光である。 続きはPART 3へ

2024年06月07日

初めてのトルコ旅行 PART1

 以前、2022年9月出発のトルコ旅行を申し込んでいたところコロナ第7波のため旅行会社がキャンセルしてしまい行けなくなっていた。この度インターネットで調べたところ「ターキッシュエアライン&トラベル」が募集している「トルコ周遊8日間ツアー」を見つけ参加することにした。
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 トルコと言ってもあまりなじみがなく中学の音楽授業で軽快な「トルコ行進曲」を聞いたのが初めてトルコを知ったのでは無いかと思う。
その後、高校の歴史などでオスマントルコのことを習ったり、日露戦争で日本がロシアのあのバルチック艦隊に勝利したことでトルコ人が海軍大将「東郷平八郎」の名前から子供の名前に「トウゴウ」と付けたり、通りの名に「東郷通り」をつけていることを聞いたことがあった。
そして2015年日本・トルコ国交樹立125周年を記念して日本・トルコ合作映画「海難1890」が作られ、2015年12月に封切られた。それに先立ち、トルコを訪れていた当時の安部首相とエルドアン大統領が11月、一緒に映画を鑑賞したニュースが流れていた。
この映画は私も封切られるとすぐに観に行き、私のブログ(平成27年12月6日)でも紹介した。一部ブログから転用すると
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『日本よりおよそ9000kmも離れた、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる1つ の国、トルコ共和国。かつてオスマン帝国として歴史に名を刻んできたその国と日本は、長きに渡り交流を深めてきた。そして2015年、日本トルコ友好 125周年を迎える。遥か海を越えた両国の友好には、歴史の裏に隠された2つの知られざる物語があった―。
1890年9月、オスマン帝国最初の親善訪日使節団を載せた軍艦「エルトゥールル号」は、その帰路の途中、和歌山県串本町沖で台風のため海難事故を起こし座礁、大破。乗組員618人が暴風雨の吹き荒れる大海原に投げ出され、500名以上の犠牲者を出してしまう。しかし、この大惨事の中、地元住民による献身的な救助 活動が行われた。言葉の通じない中、避難した小学校では村中の医師が集まり応急手当を行い、台風の影響で残りわずかな蓄えにもかかわらず、食糧や衣類を提供。そのおかげで69名の命が救われ、無事トルコへ帰還する事が出来たのだ。この出来事によりこの地で結ばれた絆は、トルコの人々の心に深く刻まれていった。この軍艦「エルトゥールル号」の話は聞くところによるとトルコの小学校の教科書に載って長い間語り継がれて来たとのこと。
そして、時は流れ1985年、イラン・イラク戦争勃発。サダム・フセインのイラン上空航空機に対する無差別攻撃宣言によって緊張が高まった。この宣言後、 在イランの自国民救出の為、各国は救援機を飛ばし次々とイランを脱出。しかし、日本政府は救援の為、自衛隊機を出すことが自衛隊の海外派兵となり憲法違反と判断し救助要請に応えなかった。またJALも乗務員の安全が確保できないと判断し救援機を出さなかった。テヘランに残された日本人は215人。メヘラバード国際空港で誰も助けの来ない危機的状況に陥り絶望の淵に立たされた。この状況を打開すべく、日本大使館はトルコへ日本人救出を依頼。トルコ大統領オザル氏は、それを快く承諾。まだ500人近くのトルコ人がテヘランに残っていたにも関わらず、日本人に優先的に飛行機の席を 譲ったのだった。』
このことで私はトルコに大変興味を持った。
 それともう一つ高校の世界史でトロイの遺跡をドイツ人のハインリヒ・シューリマンがギリシャの詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」にでてくる伝説上の都市と信じられていたトロイを、これが実在したと信じ続け私財を投げうってついに発掘した話を習った時、是非トロイを訪れてみたいと思っていた。
恥ずかしながらまさかトロイがトルコ共和国にあるとは露知らず。数年前に知ってトルコ旅行にトロイが含まれているツアーを選択した。
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ただし私のこのツアーはトルコ航空の旅行会社が企画したため、集合は現地イスタンブール空港出口のすぐ右側に有る「バーガー・キング」の前とのこと。日本のオフィスに電話したら私たちのプランで関西空港から出発される方は私たち夫婦2人だけとのこと。少々心配であったがイスタンブール空港に着いてからの道巡を示した地図などがインターネットのマイページに掲載され、また飛行機の切符もEチケットで掲載されており印刷をして持って出かけた。
 5月19日新尾道駅を14:21の「こだま」で出発、福山で「のぞみ32号」に乗り換え、新大阪で関空特急「はるか」に乗り換え無事関空についた。少し早かったため1時間ほど待つ。
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 当日の関西空港国際便出発ロビーはものすごい人で、ほとんどが外国人。日本語はほとんど聞こえず韓国語や中国語などが飛び交っていた。円安の関係で旅行客が増加しているとニュースなどで聞いていたが、ここまですごいとは思わなかった。1時間ほど待ったところでトルコ航空のカウンターが開きチェックインした。スターアライアンス加盟航空のためANAのラウンジで少し時間を過ごす。
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21時頃搭乗口前に集合したところ放送が流れ家内が搭乗口に呼び出された。家内が搭乗口まで行くと家内の座席のモニターは画像がでるが音声が故障でない。そのため搭乗前にその事が家内に通知され、それに文句を言わない様に誓約書にサインをさせられた。それに対して粗品の一つも無い、とんでもない。
 21:45イスタンブールに向けて離陸。1時間ほどで食事が出たが、言葉はあまり通じず英語のメニューを観ながら私は寿司を頼む。渡辺憲が出演している映画「GODZILLA(ゴジラ)」を観て寝た。
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 トルコ時間午前3時(日本時間朝9時)前に朝食として機内食が提供された。その時モニターで飛行ルートを観ていったら丁度黒海の南側を飛行しており、地図には手前に2014年冬のオリンピックが行われたロシアのSochi(ソチ)、その上方にはウクライナの首都Kyiv(キーウ)が書かれていた。しばらくして黒海の北側にYalta(ヤルタ)が表示されてた(写真では右側)。Yaltaはクリミヤ半島に有りこの飛行機の現在地から5〜600qほどのところ(尾道と静岡間)である。正に今この時間もロシアとウクライナが戦争をしている。今自分たちは戦場横の安心な場所にいて朝食を食べていることに有難さを感じた。
 さらにこのヤルタでは1945年2月にイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長による会議が行われ、ソ連対日参戦と第二次世界大戦の戦後処理についてヤルタ協定を結んだ場所で、現在の日本の形が作られる出発地点である。
 現地時間4時半(日本時間朝10時半)前頃、無事イスタンブール空港に到着。少し予定より早く着いたようだ。正に「飛んでイスタンブール」であった。
続きはPART 2へ

2024年06月01日

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