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外部グログ

大先生(元院長)のブログ

尾北16回生「もう一度喜寿を祝う会」

 9月16日に「もう一度喜寿を祝う会」が尾道のRyokan尾道西山(旧 西山別館)で開催された。昨年8月16日に34名が尾道市役所屋上に集まり「喜寿の会」が開催されたが、コロナ禍もあり食事会もなく座ることなく立ったままでの開催で有ったため、なんとなく顔合わせをしただけの感じがしていたので有ろう。11人の発起人が集まり今回企画運営をしてくれた。64名(男35名、女29名)の16回生が集まった。このようなお祝い事は数え年でするらしいのだが、昨年の8月では私は75歳になって4ヶ月しか経過して無くて、中々ピント来なかった感がしていた。
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 尾北16回生は昭和60年に開かれた同窓会で名前を16(いちろく)会と名付け、毎年お盆の8月16日に集まることにしていたがいつの間にやらうやむやとなっていたが昨年無事に復活していた。今回は1ヶ月遅れでは有ったが16日に開催できた。地元の同級生とは毎年6月に開催される北高「槙ヶ峰同窓会」で顔を合わせている。平成27年の「槙ヶ峰同窓会」では卒後50年の「ホームカミング」で招待を受け104名が集まったがその時以来の人数で有る。
 16時集合で17時から会が始まる。幹事の一人が進行役をつとめ、最初に物故者に黙祷を捧げる。配布された名簿には男性47名、女性12名の名が記されていた。当時の尾道北高校は普通科と家庭科があり、我々16回生は卒業時、普通科は男性181名、女性121名で家庭科は全員が女性で52名。男女別でいけば男性181名、女性173名であるがはるかに男性の死亡者数が多い。調査しきれなかった人たちもいると思うが、男子が4倍近く多いのに驚く。これも平均寿命が関係しているのか?
 次にA君が祝太鼓として氷川きよしの「きよしのズンドコ節」を叩いて会を盛り上げた。
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その後同窓会会長のK君の挨拶があり、白ワインで乾杯となり宴が始まる。
席は前もってくじ引きでテーブルが決まっていた。色々話を聞いていると「この年齢になると次の機会に参加できるかどうかわからないので最後かも知れないとおもい参加した」という人たちが多かった。
 県外からの参加者紹介もあり遠くは北海道からの参加者もいた。
卒業以来会ってなかった長崎からのF(旧姓T)君と話が出来たことは良かった。またここ4年ほど会っていなかった明石から参加したY君と話すと、この6月に奥様を亡くされたとか。日常生活や食事などについて色々と様子を聞いてしまう。息子さんが近くに住んでおられる様だが、ほとんどは自分でスーパーに買い物に行き自炊しているとか。  
最近家内との会話にも「お父さん私が先に行ったら食事どうするの?少し料理をしてみたらと誘われる」が聞き流していた。しかし同級生のことを聞くと少し考えなくてはと思う。
 最初お顔を見ても名前が出てこない人も多くいたが、だんだん面影が出てきたり、名札を見て思い出したりとあっという間の2時間で有った。
 最後に幹事の方から昨年の喜寿の会にはご出席いただいた恩師のK先生の近況のお手紙が披露された。2通あり6月の時点では参加することを楽しみにしているとのことで合ったが、8月のお手紙では、今年は89歳になり歩くのも少し自信が無く酷暑故に欠席するとのことで合った。
K先生は私が2年生の時赴任されてきたが、おそらく29歳でなかったかと思う。第一印象がすごかった。普通先生は授業の始まりのベルが鳴って職員室を出られるのだがこのK先生はベルが鳴る前に教室の入り口の廊下に立っていてベルが鳴ると同時に教室に入ってこられてすぐ授業開始された。驚きである。それがずっと続いていたと思う。
 最後に校歌斉唱で宴はお開きになった。タクシーが中々来ないので歩いて家まで帰る。65分かかった。
 翌朝いつものようにウォーキングをしていたらK先生のお住まいのマンションの前でぱったりお会いする。ちょうどゴミ出しに出てきておられた。昨日のことをご報告した。とても元気そうで足取りもしっかりされていて良かった。
つぎは80歳「傘寿」の会が有るのかな?

2023年09月18日

懐かしき歌

 先日、頭から布をかぶった外国籍の女性が来院された。服装でイスラム圏からの方だと思った。どこの国から来たのか聞けばインドネシアとのこと。3年以上介護施設で働いているとのこと。日本語もすごく達者である。
 インドネシアと聞いたとたん「ノーナマニサパ ヤンプーニャン ラササーヤ  サーヤゲン」とい言う言葉が急に頭に浮かんだ。
多分インドネシア語だと思ったのでこの言葉はインドネシア語ですか?と質問してみた。彼女はすごく驚いたようで「そうです」と答えてくれた。矢継ぎ早にどうして知っているのですかと逆に質問された。
 昔、昭和40年(58年前)に広大に入学したとき「広大ホームアジア」という同好会に入って活動をしていた。この同好会は当時日本政府が大東亜戦争で日本が負け、その折アジア各国に迷惑を掛けたという趣旨で日本の各地の大学へ国費留学生を招いていた。当時広島大学にはインドネシア、台湾、パキスタン、からの留学生がいた。彼らが日本で生活することや日本語の習得、勉強などのお手伝いをしたり、また色いろと意見をのべあいながら親睦を高め、日本を理解してもらうような活動をしていた。
休日にはハイキングに出かけたり、夏休みにはキャンプに行ったりクリスマス会などもあってより親睦を高めた。その時いろんな歌を歌った。その中で歌詞に「ノーナマニサパ ヤンプーニャン ノーナマニサパ ヤンプーニャン ラササーヤ  サーヤゲン」というのがあり、インドネシアからの留学生と一緒に歌った光景を思い出した。しかし歌の題は忘れていた。この歌詞の意味を逆に彼女に聞いてみたが難しいと言われた。
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 次回彼女が来院されるまでに少し知識を入れようとインターネットで検索したら「かわいあの娘(こ)は誰のもの」と言う歌でボニージャックス他、何人かが歌っていることがわかった。流行歌だったとは全く知らずラジオで聴いたこともなかった。
それで歌詞をコピーしてスマホで歌が聴けるようにして来院を待った。来院されたとき歌の歌詞を渡しスマホで聴いてもらった。この曲、元はインドネシアの民謡のようなものらしい。日本でインドネシアの歌が聴けるとは思っていなかったようでとても喜ばれた。
その後、私も再々この歌を口ずさんでいる自分に気がつく。
 同じ頃、広大工学部応用化学科で一級先輩のTさんからメールが届く。終活するつもりで段ボール箱をあけたらいろんな物が出てきたがその中にガリ版刷りの「春歌集」が出てきたといつて1ページ目の写真を添付してきた。これまた懐かしい物である。今のZ世代の人たちに「春歌」と行っても判らないであろうが私たちの世代では一杯飲んだらよく「春歌」を歌ったものである。今の若い世代では、「春をひさぐ」なんて言葉は死語に近いであろう、「売春」と言う言葉は理解できるようである。
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 それにしても添付写真の最初の歌は「めんこい仔馬」のメロディーで歌うのだが
『ゆうべとうちゃんと寝たときに、 へんなところに芋がある、 とうちゃんこの芋なんの芋  オーラ  坊やよく聞けこの芋は、 坊や作った種芋さ。』・・・・
私も何回も歌った懐かしい歌である。
 いろんな歌が替え歌となっていて、「性」や「セックス」を想起させるものがほとんどで有った様に思う。それにしても替え歌の歌詞を作詞した人はごく普通の人であろうが、作詞家としての才能があったのでは無いか? あるいは詩人では無いのかと想像してしまう。私にとっては古き良き時代の日本の文化かなと思う。今の若い世代はいやらしいと毛嫌いするのであろうが。

2023年09月05日

今年のお振り返る振り返る

 今年はカレンダの関係で8月10日木曜日(通常は休診日)と12日土曜日を入れ替え、11日から15日までの5日間という長いお盆休みとさせていただいた。患者様にはご不便をおかけしました。
 10日に台風6号が通り過ぎ良かったと思っていたが、お盆休み後半には台風7号が接近して雨を降らした。幸いここ尾道はほとんど被害も無く良かった。
 ところでお盆には毎年お墓参りに行くが、今年は台風の心配もあり1日早く12日に出かける。まず齊田の墓所に行くが、すでに息子達が先に参ってくれてお花が供えてあった。その後家内の家のお墓参りにいく。
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 その墓所への道の途中で30m位離れた藤井川の土手にかなり大きな木で白い花が咲いているのを見つけた。何だろうと思って家内と川土手を進むと「百日紅の木」で花が満開から少し散りかけていた。その向こうにも赤ピンクの花が有ったがこれも「百日紅」であった。何十年もお盆の時期お墓参りに行くのだが、ついぞ気がつかなかった。今まではお墓に参ることに集中しすぎて周囲をゆっくり見渡すようなこともなかったのかも知れない。
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 家内の実家のお墓もすでに兄嫁や甥っ子達が来て墓掃除をし、お花が供えられていた。帰りに藤井川の流れを観ながら歩いていたら石の上に小亀が甲羅干しをしていた。
 帰って昼から本読んでいたら「父母もその父母もわが身なり われを愛せよ我を敬せよ」(二宮尊徳)という一文に出会った。この一文を見てまさにお墓参りがこの一文を導いてくれたと思った。先祖からこの命を代々受け継いで今がある。決して自分一人ではないその血の重さを考えるとこの命大切にしなくてはと思う。孫達にもそのような話をすることが大切で、日本国中でそのような雰囲気になれば自殺など無くなるのではないのかな。
 13日、14日は気温も高かったが、朝8時頃から13時頃まで畑に出て草取りや水撒きをする。草を取るのに中腰でするせいか腰が痛くて適わない。そして15日は終戦記念日である。12時にはNHKの中継を観ながら起立して1分間の黙祷をした。私の父親は昭和17年2月にシンガポールでイギリス軍の砲弾の破片が胸に入り生死をさまよったが無事生還し、終戦時は除隊をしていた。そのおかげで私はこの世に産まれた。砲弾の破片は死ぬまで肺の中に有った様だ。昔、胸のレントゲン写真に破片が写っていたのを観たことがある。
 昼からインターネットを見ていたら「本川 裕」(統計探偵/統計データ分析家)氏の書かれた一文を見つけた。それは2022/06/08 13:00にアップされたもので「国のために戦いますか?」日本人の「はい」率は世界最低13%・・・50歳以上の国防意識ガタ落ちの意外な理由 他国はリーマンシュック後の世界金融危機直後に「国防意識」上昇
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 グラフを見ると下位2番目がリトアニアで32.8%、3位はスペイン33.5%、4位マケドニア36.2%、5位イタリア37.4%で、現在戦争をしているウクライナは27位で56.9%、ロシアは45位で68.2%。なお米国は30位の59.6%、韓国は40位の67.4%、台湾は60位の76.9%で最も国防意識の強いのはベトナムで96.4%であった。
(なおこのデターは各国の全国18歳以上男女1,000〜2,000サンプル程度の意識調査結果)
 この表を見て日本の低さは異常で本当に驚いた。あまりにも日本人はお花畑状態ではないかと思った。国際情勢では2027年にでも台湾を巡って米中戦争が起きるかも知れないと予測されている。そうなれば日本は否応なしに戦争に巻き込まれる。その時日本人はどうするので有ろうか?私は少なくとも戦う。そのように思っていたところ、その日の19:30から図らずもNHKスペシャルで「Z世代と”戦争“ 3千人アンケート」という番組が放映された。その質問に
1、10年以内に日本が戦争に巻き込まれる可能性はあると思うか?
  あると思うが17%、どちらかといえばあると思うが38%で半数を超えていた。
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2、もしも日本が戦争に巻き込まれたらどうするか?
  戦争に参加せず戦争反対の声を上げる 36%
  戦闘に参加せず国外に逃げる 21%
  戦闘には参加しないが戦いを支持する活動に参加する 10%
  戦闘に参加する 5%
  わからない 答えたくない22%
と報道されていた、他にも
3、この世界から戦争はなくせると思うか?等全部で7つの質問があった。
 戦争は出来るだけしないことに越したことはない。しかし相手国から勝手に攻められたときどうするかの心構えは前もってしておかなくてはならない。台湾有事があれば中国は必ず日本の米軍基地にミサイル攻撃をする。そうなれば日本は攻撃されたとして反撃することになる。当然自分だけではなく家族も被害を受ける。今のロシア・ウクライナ戦争がそれを示している。何もしないで降参してしまうと中国に占領されウイグルやチベットと同様にニッポン自治区とされ言論の自由もなければ行動の自由もなくなることは大いに想像できる。2600年以上続くこの日本が私は大好きである。なんとしても日本国が持続できる様にしたい。

2023年08月18日

初めての「エスコンフィールド北海道」

 先月15〜17日に4年振りの北海道に出かけた。そして7月29日には札幌ロイトンホテルで北海道医療大学歯学部同窓会理事会が開催されそれに出席した。宿泊は同じロイトンにした。ちなみに私は副会長を拝命している。今回はJALで出かけたので広島空港を10:35発で行くことになっていたが40分ほど遅れて出発となった。聞くところによれば翌30日に千歳航空自衛隊の航空祭の予行演習のため滑走路の使用制限があったようだ。
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 夕方から理事会が始まったが、考えてみれば2020年8月に今の理事会が発足して初めて対面での理事会になる。コロナのために3年間はZoomでの理事会であつた。しかもこのメンバーでの理事会はこれが最初で最後の対面理事会とは思いもつかなかった。事業報告、決算、次期の事業計画などについて話し合う。来年は同窓会ができて丁度40周年になるため、祝賀会などについても少し話し合う。会議終了後懇親会あり。4年振りゆえ大いに花が咲く。
 翌日飛行機は14:55であり少し時間的余裕がある。今までも千歳で開業している同級生のU先生とたびたび会っていたがここ4年会っていなかったので会おうと前もって予約を入れておいた。大抵は色々のところにドライブをしながら1年分のお話をするのだが今回は4年分である。前回2019年には支笏湖の丸駒温泉に連れて行って貰い1時間ほど湯につかりながら話をしたことを思い出した。今回会う約束をした際、北広島の日本ハムファイターズの球場「エスコンフィールド」が観てみたいと言っておいた。
 朝九時にホテルに迎えに来てくれて、北広島に向かう。途中近況などを話すが彼も65歳を超えて高齢者になったとか。
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 「エスコンフィールド」には駐車場があるが、もし駐車出来なかったらまずいので、あらかじめ北広島駅前で開業している同級生のN歯科医院駐車場を借りていてくれた。そこに止め駅から球場まではタクシーで行く、タクシー乗り場で並んでいると私たちの一つ前に並んでいた若い女性(大学生風)が「タクシーをシェアーしませんか?料金は半額払います」と話しかけてきた。シェアーすることには同意したが料金はいらないと話す。最も払うのはU先生なのだが。後期高齢者の私など孫娘ほどの若い女性に声を掛けられるとどぎまぎする。向こうも老人なので大丈夫と思ったのかも知れない?
 タクシーに乗り込んでから話をすると野球観戦ではなく、球場内でビール売り歩くアルバイトをしているとのこと。
 当日は13:00から日ハムとオリックスの試合がある日で、U先生が前もって観戦チケットを手にいれていてくれた。最も飛行機の関係で試合を観ることは出来ないが10時過ぎに会場に着きチケットのQRコードをかざして手荷物検査を受けて入場、すると色々なグッヅを手渡してくれた。その中にグルメガイドの本があり球場内の食べ物屋さんの案内が載っていた。スマホで注文すると観戦席までデリバーしてくれるサービスもあるようだ。また選手のおすすめ料理や食べ物、飲み物なども記載されていた。また野球の試合がない日でも来場できてグルメを堪能できるとのこと。
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 入ったすぐそこは2階席で目の前にグランドが見下ろせた、当日は少し雨が降っていたため屋根付きとなっていた。チケットは4階席である。
球場の中を歩いて見学。ファイターズガールがいて目が合うとにっこり笑ってくれた。中々笑顔が素敵であった。
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また壁にはダルビッシュ有選手と大谷翔平選手の二人が描かれたウオールアートがあり記念撮影をしている家族もいた。
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またクラフトビール醸造レストランもあったし、天然温泉もありびっくり。至る所に案内の人が立っていてすぐ色々なことを教えてくれたりしてありがたい。
 せっかく観戦チケットがあるので3塁側の4階の指定席に座りに行く。しばらく座って日ハムの選手の練習風景を観た。
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 帰りがけにU先生がお孫さんへと「狐ダンスのカチューシャ」を買ってくれた。そこで初めて知ったのだが、球場内では現金が使えず、スマホ決済またはカード決済とのこと驚く。
狐ダンスは流行っているとのこと。そういえば観戦に来ている子供や大人も狐ダンスのカチューシャをつけている人が多くいた。カープファンなので日ハムのことを知らずに申し訳ない。広島マツダスタジアムしか知らないのだが、とても進化した素敵な球場だと思った。
 12時前にエスコンフィールドを後にして新千歳空港に向かう。途中ブルーインパルスが空を飛んでいるのを道路脇に車を止めて観たが、スピードが速く中々スマホで撮影するのが大変であった。何回もUターンしながら千歳の上を飛んでくれたので撮影できた。また航空自衛隊の基地には政府専用機も駐機しているのが見えた。
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 空港でU先生と別れたが、「時間と体とお金を使わせU先生には申し訳なかった」と感謝でいっぱいである。

2023年08月07日

4年振りの北海道 (3)

 いよいよ最終日、起床して外を見ると深い霧に覆われて何にも見えなかったが、9時頃には少し霧が晴れて洞爺湖の中島が見えてきた。旅行会社の予定表ではタクシーが11時にホテルに迎えに来ることになっていた。出発時間までゆったり過ごす。
タクシーに乗って運転手さんと話したところ、予定表では昭和新山見学と有珠山のロープウエイに乗るとなっていた。
有珠山のロープウエイに乗るのは気乗りせず断る。代わりに「洞爺湖サミット記念資料館」をみたいと提案した。山の上のホテルから下りていくとき霧がなければ羊蹄山が綺麗に見えるスポットと言われたが何も見えず。
運転手さんは有珠山ロープウエイ観光がなくなり1時間の空き時間をどのようにしたら良いのか困られたようだ。とりあえず昭和新山に向かい、途中「洞爺湖サミット記念資料館」を観た。当時使用したテーブルと椅子が展示されていた。またどのような食事が提供されたか、そしてどんなことが討議されたのかがパネルで展示されていた。
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 その後昭和新山に向かう。当別に住んでいた時、家族4人できたことを思い出した。その時、足元の石を拾ったが今も持っており、その石には1981年5月3日と書かれていた。
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昭和新山については小学生のとき国語の教科書に記述があった気がする。
運転手さんは地元人なので色々考えて昭和新山と有珠山がよく見える所に連れて行ってくれた。
 そしてあじさいが咲いていて綺麗なお寺が有るからと案内された。「有珠善光寺」である。このお寺はホームページによれば826年に天台宗僧侶慈覚大師円仁が有珠を訪れ小宇を造り阿弥陀如来像を安置したことが寺の開基とされている。その後1613年に松前藩主の松前慶弘が有珠を訪れ如来堂を再興し阿弥陀如来を安置して善光寺と称した。
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 さらに1804年江戸幕府が蝦夷地を直轄するにあたり設置された「蝦夷三官寺」の一つとなり本堂や客殿が再興されたと記載されている。お寺の線香を立てる器に徳川家の家紋が入っていた。
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 あじさいは花の形も色もいろいろの種類が有り綺麗であった。私たちが訪れたときは丁度「アジサイマルシェ キッチンカーフェスin有珠善光寺」が開催されておりかなりの人が集まっていた。かき氷をここで食べた。
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 次に入江貝塚に連れて行ってもらう。ここは今から4000年以上昔の縄文人が住んでいた所である。尾道にも高須に太田貝塚が有ったが保存がいきとどかず、今は石碑のみが建っており、出土品も多くは逸散し一部保存されているようだが公開はされていない。残念である。入江貝塚の入り口には貝塚の層が分かる様に垂直の壁が切り出されて展示されていた。縦穴住居跡もある。人骨が出土した写真などもあった。
その後近くの「入江・高砂貝塚館」に案内してもらい出土品などをみた。動物の骨かなんかで作った釣り針には現代と同じようにフックがついており、掛かった魚が逃げられない構造になっていた。4000年以上前のその時代にそのようなアイデアがあったことに驚く。
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そして「世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群」というポスターが貼ってあった。以前何かでアイヌの人たちは先住民族だと書いてあったのを読んだことがあった。しかし今回の貝怩みたりすると少なくとも北海道の先住民族は縄文人でありアイヌの人たちは縄文人が寒冷化に伴い本州方面に移動した後、オホーツク方面からやってきて住み着いた人ではないのかと思う。もちろん今は日本人ではあるが、先住民だったと言う表現は違うのではないだろうか? 多分すでに分析はされていると思うが、アイヌ人のDNAと縄文人のDNAを比較すれば良いのでは。
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 その後、2000年に有珠山で噴火が起きて土地が隆起したところに案内された。ここの案内板の写真と見比べながら、1853年の爆発でできた大有珠、1977〜1978年の噴火でできた有珠新山、年代不明の西山を確認した。またその手前に、2000年の噴火で盛り上がった小さな山が見えている。2000年の噴火のときは既に定点観測がなされ噴火予知情報が発出されたため、全員が避難し命を失う人はいなかったとのこと。運転手さんの話では、有珠山は30年周期ぐらいで噴火しているとのこと、そろそろ噴火する時期が近づいているらしい。
洞爺駅まで送ってもらい15:30の「北斗13号」にて南千歳駅に行き、エアポート号に乗り換え新千歳空港に着く。18:55の飛行機に乗るつもりでいたが結局40分遅れでテイクオフ。おかげで家にたどりついたのは22時45分頃であった。

2023年07月28日

4年振りの北海道 (2)

 今日は12:09札幌発「北斗12号」で洞爺に向かうことになっている。朝食は「ビュッフェタイプ」でお腹いっぱい食べた。ホテルからは駅までは歩いて行ける距離で、近くに時計台、北海道庁が有るのでそこを観ながら駅に行くことにした。時計台にも多くの観光客がいた。また道庁に行くと改修工事が行われていた。建物全体が素屋根で覆われ外側に道庁の建物を写真撮影して印刷された幌で覆われていた。
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 一見それらしく見えるが、残念ながらいつもの赤煉瓦の建物をみることはできなかった。何年か前に時計台が改修工事をしていたときと同じように印刷された幌で覆われていたのを思い出した。改修工事は2025年2月までの予定とのこと。道庁の前の池には赤と白の睡蓮が咲いておりマガモがゆったり遊んでいた。
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 その後駅に行き、列車で洞爺へ向かう。洞爺湖は何回か観たことがあったが洞爺湖温泉には入浴したことがない。宿は旅行会社にお任せしていたところ2008年の洞爺湖サミットが開催された「ザ・ウィンザーホテル洞爺」とのこと。洞爺駅には当時のサミットの案内があった。よく見ると旗が9本立っていてG8であった。今年の広島サミットではG7であったが当時はロシアが参加していてG8だったのだと改めて思い出した。
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 ホテルまでの公共交通は無くお迎えバスにて40分ほど掛かった。ホテルは山の上でそこにはホテル以外に何も無い。だから警備がしやすくサミット会場に選ばれたのかも知れない。TVニュースなどでこのホテルの外観は何回も観たことがあった。
 今度は予約の部屋(ジュニアースイートルーム)があった。昨日の部屋より狭いがそれでも十分に大きい。ちなみに隣の909号室は当時のアメリカ合衆国大統領ブッシュ氏が宿泊した部屋で広さはおそらく私が泊まった部屋の倍以上だと思われた。
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 夕食までしばらく時間があったのでホテル内や外を散策してみた。すごく大きなホテルで散策するにもそこそこ時間を費やした。散策途中サミットを記念して植樹された木が大きくなっていた。また各国首脳が並んで記念撮影をしたところがあり、ちょうど福田康夫首相が立っていた同じ位置に立って写真を撮った。このホテルはゴルフ場やスキー場も併設していてリゾートホテルという感じがした。部屋の窓からは洞爺湖がよく見えた。
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 散策後温泉に入りそれから夕食となったがフランス料理、和食、中華料理の3タイプの内、チェックイン時に中華をお願いした。またチェックイン時にドリンク券が一人一枚ついていたので、それを出しビールを飲む。家内もビールを頼み少し飲んだと後、私にくれたのでそれを飲み他にアルコール類は注文しなかった。料理はなかなか美味しかったし、品数もあり十分にお腹が太った。そういえば、朝食をいっぱい食べたせいかお昼に腹が減らなくて昼食を食べていなかった。夕食後再度温泉に入り就寝。明日はこの近辺を観光し、帰路につくことにしてい

2023年07月24日

4年振りの北海道 (1)

 7月15日に「北海道医療大学父兄後援会全国支部長会議」が開催され4年振りに北海道に行った。コロナ前には年3〜4回色々の会議で行っていたが、コロナ以後会議が中止されたり、オンラインZOOMで行われたりしていた。5月に5類相当になりやっと対面での開催となった。今回は17日が海の記念日で連休になったことも有り、会議後小旅行をと思い家内と一緒に出かけることにした。
 広島空港を朝8:05のANAで出かけた。旅行の日程は旅行会社にお願いした。本来ならJALの10:35位の方が出かけやすかったのだが、夏でしかも連休と言うことでANAしか取れなかったとのこと。
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 途中窓から外を見ると分厚い雲が眼下に見え地上の景色はさっぱり、新潟、山形、秋田上空を飛んだがこの雲の下では線上降水帯発生していたのではないだろうか?
 新千歳に10時に着いたが会議は17:30からなので時間が十分有るため、家内とどこに行こうかと話しあい、札幌の隣町、当別へ行き元住んでいたところのお隣さんのTさん宅を訪ねることにした。新千歳から札幌経由札沼線で当別駅まで行く。途中あらたな駅が出来ていたりしてずいぶんと札沼線も様変わりである。お隣のTさんが在宅か不在か分からない。年賀状のやりとりはしているので住所は分かるが電話番号が分からない。まあ当別駅で降りて公衆電話ボックスで電話帳を見れば良いと思ったが、いざ着いてみると公衆電話が無く電話番号が調べられない。今や公衆電話は日本中で無くなってきているらしい。
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歩いても10数分なのだが雨が結構降っておりとリあえずタクシーで向かう。
 途中町もずいぶんと変わっている。到着してTさんの家のベルを押すと在宅であった。本当に良かった。
 私たちが住んでいた家はずいぶん前に取り壊され草が生え野原になっていた。当時この一角には14軒ほど家があったが今は3軒しか残っていないとのこと。
3時間ほど色々と話しをして当時を思い出しあっという間に時間が過ぎた。帰りはご夫妻が車で会議が開かれるホテルニュウオータニイン札幌まで送ってくれた。宿泊も同じホテルなのでチェックインをした。
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 予約していた部屋(プレミアムツイン)が満室ということで違う部屋に案内されたがどうやら1ランク上の部屋でドアに「エグゼクティブ スイート」と書いてあり中は広く、100uくらいあると思われびっくりした。ラッキーである。
 会議は大学から現状報告の説明を聞いたが昨今の少子高齢化で受験者数もかなり減少し、同時に入学者数もかなり減って定員割れの学部が多いとのこと。今年は歯学部が80人募集で入学者は67人とのこと。また付属衛生士学校では50人定員にたいし18人しか入学しなかったとのこと。この調子だと今後の歯科医療そのものに暗雲が立ちこめてきている。
 さらに昨今、東京方面の大学が北海道の高校に推薦枠を大幅に割り当てているようで、若い人は東京方面の大学を受験しているとのこと。その後各支部報告をした。
会議後懇親会が催され大いに盛り上がった。
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 同級のM先生(札幌在住)に「家内と一緒に来ている」と話すと懇親会終了後ちょっと出てみましょうと誘われ、家内と共に札幌の街に繰り出し居酒屋で1時間ほど飲んだ。このM先生、学生時代に当別の我が家に遊びに来ていて、家内の出した「カレーライスの味が忘れられない」と言っていた。明日は洞爺湖温泉に行くことにしている。

2023年07月20日

なんと人の命の儚さよ

 6月8日に2年振りに三原医師会病院でPET―CT検査を受けたがその結果が6月19日に郵送されてきた。大丈夫だったかなと思いながら開封した。所見を観たが異常なしでA判定であった。胸をなで下ろすと同時にほっとした自分がいた。
そして翌20日に尾道市歯科医師会から会員のN先生(68歳)が亡くなられたという訃報が届く。これもビックリである。死というものには、順番がない。私も尾道市歯科医師会では今や上から4番目の年齢に達しているが、死だけは年齢の順番では無いようである。
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 なんとか元気で長生きをしようと思っているが、今月6日の朝、ウォーキングをしていて丁度吉和漁業組合の前を歩いているとき、右足が縁石か何かに引っ掛かったのかクニャッとなった瞬間ふくらはぎに激痛が走りその場にうずくまる。丁度寝ていて足がつる「こむら返り」があるが、その痛みよりもさらに数倍も痛く感じた。ウォーキングを中止して右足を引きずりながら帰り、湿布薬を貼り、サポーターをして出勤。仕事中も足を引きずり、椅子から立ち上がるのもヤッコラサである、自己診断で「肉離れ」では無いかと考えた。とりあえず湿布薬と痛み止めを飲んで様子を見ることとして医者には掛からなかった。足そのものはかなり腫れたが、5日くらいすると痛みはかなり減少してきた。しかし腫れはあまり引かない。また足首に内出血があるのが確認できた。17日になると歩き方もほぼ元通りになったのでウォーキングを開始した。サポーターは今でも使っている。
 昨年11月には転倒して右の小指を脱臼し、手首も痛めたが今は何とか仕事に支障は出てない。
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ところで「フレール」という言葉がある。これは身体的虚弱などを表す言葉だがその判定には「運動機能の低下・障害」が入っている。これがすすむと要介護状態になるのだが私もそろそろフレールになる手前まで来ているのかもしれない。介護状態になる原因は日本人では脳神経疾患が一番だが転倒などによる骨折は4番目に位置している。くわばらくわばら。「儚い人生」と雖もなんとか「花咲く人生」にしたいと思い気をつけてウォーキングをしている今日この頃である。

2023年06月22日

すわ新種か?

 4月23日に苗屋で「節成りキュウリキュウリ 『なるなる』」を6苗購入して植えた。今までに2本程収穫したのだが、一昨日6月9日に畑に行くと植えたキュウリに異変が見つかる。馬鹿でかい大きな黄色花が咲いており花の根元になんとカボチャの実がついていてビックリポンである。まちがつてカボチャの苗を購入したのかと思い、根元を見るとツルがいくつかに分かれていてそのうち一個のツルにカボチャがなっていた。
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 ほかのキュウリも見たところさらに一本同じようにカボチャがついているものがあった。キュウリの商品名札に「うどんこ耐病」と書いてあったが、今年はうどんこ病や、ベト病がひどくずいぶん葉っぱがだめになって枯れている。看板に偽りありと思った。初めてこのようなキュウリをみた。新種では無いかと思った。
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ちょうど家内が苗屋にサツマイモの苗を注文しに行って状況を話すと、あのキュウリの苗は「ナント種苗株式会社」の製品で、異なる2つの近交系(キュウリとカボチャ)を交配したもので、そのためキュウリの元気が無いときカボチャの性質が現れやすいとの説明であった。ただしできたカボチャの味は良くないのだとか。
おそらく、うどんこ病やベト病で葉っぱがやられ弱ったところに追肥などを私が怠ったためにこのような状況になったのでは無いだろうか?もう少しお世話をしなさいとの神様の啓示では無いのだろうか。それにしても茄子は接ぎ木苗だと知っていたが、キュウリにもこのような細工があると知って一つ賢くなった。
 キュウリと同じ日に植えた茄子、トマト、シシトウ、は順調に育っている。ただしピーマンは2株のうち一株は先端の新芽が何者かに食べられ成長が止まっているようだ。
 また実生のトマトも結構大きくなってしっかり実をつけだしている。楽しみだ。
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 ところで最近の農作業ついて書くと昨年9月20日に種蒔きして11月3日に苗を植えつけたタマネギを5月21日に収穫した。出来具合はまま良かった。そして今年3月12日に作付けしたジャガイモを6月4日に収穫。少し玉は小振りであったがまあまあであった。
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いずれも少しばかりではあるが従業員の皆さんにお裾分けができた。
そして6月9日診療が終わってからサツマイモ「紅はるか」を植え付けた。作業終了時あたは暗くなっていた。
 これから1週間から10日くらいサツマイモが根付くまで水やりをしなくてはならないな。秋の収穫が楽しみである・

2023年06月12日

福澤桃介著「西洋文明の没落・東洋文明の勃興」を読んで

 先日、福澤桃介著『西洋文明の没落・東洋文明の勃興』(昭和7年2月11日発効ダイヤモンド社出版部刊)がダイレクト出版により復刻され(2022.11.20第一版)取り寄せて読んだ。この本はGHQによって焚書にされた本で帯封には「崩れ去るヨーロッパ文明への幻想 福澤諭吉を義父に持つ名実業家が暴露 戦後に欧州人が隠蔽した『西洋の黒歴史』と有る。
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 GHQは7000冊以上の本を焚書として日本人の目に触れないようにした。
なぜこの本が焚書にされたのか真意が知りたくて購入し読んだ。
 私は福澤桃介という著書の名前をこの本で初めて知った。本の中の著者紹介では、福澤桃介氏(1868−1938)の略歴は明治元年埼玉県に生まれ、旧姓岩崎桃介。慶應義塾在学中に福澤諭吉の養子となり渡米、帰国後諭吉の次女福沢房と結婚、その後実業家として活躍し、日清紡績、東亞合成、関西電力、中部電力、東邦ガス、大同特殊鋼、名古屋鉄道、帝国劇場など、今にも引き継がれている有名企業の設立や経営に携わる。こうした活躍から「日本の電力王」と呼ばれた。また衆議院議員も勤めたとある。
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 この本によると、当時第一次世界大戦が終わり戦死者だけでも600万人を越、さらにスペイン風邪でヨーロッパ全体では250〜300万人が死んだ。このことより西洋文明の没落を説く欧米人による著書が多数欧米で出版された。さらにヨーロッパ全体では4.5億人の人口がいるが、ヨーロッパだけで養えるのは3億人分の天然資源があるのみで、残り1.5億人はヨーロッパ以外の地方から食料及び必需品を供給することで養ってきたが、大戦で産業が破壊され養うのが困難になった。ヨーロッパ人をしてヨーロッパの前途を甚だしく悲観させたのは、ヨーロッパにおける精神生活が、世界大戦のために、非常なる頽廃状態に導かれ精神が荒んだという様な単純なもので無く、経済的疲弊が錯綜していると福澤は分析している。
 そもそも彼らはヨーロッパ人の欲望を満たすため、15世紀末からヨーロッパ以外すなわち東洋に進出してきた。日本でもキリスト教の布教ということでザビエルなど宣教師がやってきたが裏の顔には侵略し植民地にするという目的があったことは現在では周知の事実である。
 彼らは「有色人種は人間にあらず」との観念をもちアフリカ大陸・東洋にやってきた。さらにヨーロッパ人、アメリカ人たちがいかにして植民地化をはかり、世界大陸の9分の8がヨーロッパ人の支配下に入ったかを記している。
キリシタンが日本にやってきた際にも、彼らは日本から数万人規模で奴隷を「輸出」して
います。戦争捕虜や、誘拐されたり親に売られた子供が奴隷として南蛮商人によって東南アジアからポルトガル本国、さらには南米にまで売られていました。このことに気がついた豊臣秀吉は宣教師追放令を出している。
 ところが「有色人種は人間に有らず」という考えが持続しており、1776年米国フィラデルフィアにおいてアメリカ独立宣言が読み上げられた。このことについて福澤氏は皮肉を込めて次の様に書いている。
 引用すると「これは冒頭において『人間は生れながらにして平等である。平等に幸福を追求する権利がある』と書かれてある、こういうような意味が全文を一貫して、人間の平等を強調しているのである。そして、これが読み上げられた時に、フィラデルフィアの大会堂に居並んだ全アメリカの愛国者、人道論者は、満堂一斉に歓呼の声を揚げ、誠に世にも美わしい感激の情景を現出したのであった。
 しかるに、この大会堂の窓一つ隔てて外の光景を眺めると、当時フィラデルフィアの人口たるや、黒人が約三分の二近くで、町を見ると灰色に見えると言われておったほどであつた。しかし、その黒人達はことごとく皆な奴隷であったのである。
しかのみならず、そのフィラデルフィアの大通りを、数百数千の奴隷が鞭で殴られ、棍棒をもって打たれながら重い、荷物を挽(ひ)いて呻吟の声を上げ、悲鳴泣喚(ひめいきゅうかん)を継続して通っているという暗澹たる有り様であったのだ。』と記す。[p58]
奴隷というものは古代ローマ時代から存在していたが、ヨーロッパ人が再現した奴隷というものは、「人間をまるで牛や馬の代わりに酷使するにあったから、その労働においてもはたまたその待遇においても、これを牛馬同様のものとして、毫(ごう)もその間に人格を認めなかったのである。」とも書いている。
さらに奴隷をアジア・アフリカなどから運ぶ時の劣悪なる環境などについても詳細に記載している。
また日露戦争で日本が勝利したことは言い換えれば初めて有色人種が白色人種に勝ったことを意味し世界植民地化の流れを止めた、欧米以外の国で大いに喜ばれ、後の独立運動の遠因になる。
いかに白人たちが奴隷を虐待したかを暴露しており、まさに西洋人の黒歴史である。
GHQ占領軍は「こんな本を日本人が読んだら、自分たちが教えようとしている『民主主義』に疑いの目を向けてしまう」と思って焚書にしたのだと理解した。
 余談だが、この本が出版される前、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本が国際連盟規約の中に「人種差別の撤廃」を明記するべきと言う提案をして11対5で賛成多数となったが、当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウイルソンは委員会の議長を務めていたが、議長権限で全員一致でなければ可決されないと否決した。国際会議で人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界最初である。
このようなことは学校の歴史で習うことは決して無い。学校では日本人はアジアを侵略し悪いことをしたというように教えられる。そうでは無いことを知るためにこの本が歴史教科書の副読本で採用されると良いなと思った。

2023年05月23日

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