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大先生(元院長)のブログ

今年のGWを振り返る

 新聞やTVではことしのGWは長いところで9連休と報道していたが、我が「さいだ歯科医院」は暦通りの飛び石連休であった。日記風に書くと4月29日は午前中、ジャガイモ畑の草取りをして午後は雨だったので読書。30日は曇り、尾道港祭りを観に家内と二人歩いて街に出てみた。U2のところには海上自衛隊水中処分母船「YDT-04」が停泊しており、乗船して中を見学している人も多くいたが私は外から写真に収めるだけであった。
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 その後駅前広場特設ステージでは小学生が「ええじゃんSANSA ・がり」の踊りを披露していた。私は審査委員席から東、通称「一円ポッポ」の福本汽船桟橋近くで見学、地元「三成小学校」・「美木原小学校」・「栗北小学校」などの踊りを見たりする。家内は「浦崎小学校」が神楽の衣装で踊っていたのに感動したと言っていた。
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 その後、公営渡船乗り場まで歩き本通りを通って帰途についた。日頃まばらな本通りに観光客を含めて人があふれかえっていてここ久しく見たことも無い光景であった。家内が疲れたというので家までは歩かず尾道駅前からバスに乗る。バスに乗るのも本当に何年振りかという感じであった。しかも後期高齢者になってから尾道市から「バス・船舶共通利用券」をもらっているが、いままで一度も使って無かったので初めて利用した。昼食はおうちでご飯。
 そして5月3日から5日までは、畑で草取りをした。ただ5日は三成地区では昔から浦島祭りがある。その昔、童話にでてくる浦島太郎がいたという伝説が残っており近所に浦島神社が建立されている。
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この日は子供たちが子供神輿を引きながら地区をねりあるくという行事である。開業以来私の医院の駐車場で休憩を取ることになっている。今年も子供たちが「はっぴ」を着てやってきたが一瞬目を疑った。と言うのも参加している子供が総勢13人である。昔、我が息子たちが参加していた頃は今の何倍もの子供がいた。付き添われているお母様方に聞くともう少しはいるのだが最近は子供会や町内会にも入らない人が多いのだとか。それにしても少子化という現実を突きつけられ、郷土の行事も廃れていくのでは無いかと感じた。7日GW最後の日は朝から雨でウオーキングもしないで朝から読書をした。まさにGWは晴耕雨読であった。
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GWまえから少し読み始めていた松浦光修(皇學館大学文学部教授)著 経営科学出版2022.12.25.発行の『いいかげんにしろ日教組  われ「亡国教育と、かく闘えり」』で、平成15年10月PHP出版から発行された本の復刻版である。三重県日教組と著者の平成10年から平成15年にいたる“闘”いの歴史である。著者は神道学を研究しており、日教組による「反日自虐教育」に我慢ができなかったのではないだろうか? 前書きから一部引用すると
『巨視的に見れば、日教組はGHQ支配下で作られた“戦後体制の生命維持装置”でありその体制が、今も続いているから、日教組支配はつづいているのである。“日本が自立した強い国にならないこと”、できれば目ざわりな“日本国を自滅させること”、それらの秘められたプログラムは占領中にセットされ、GHQが日本から去ったあとも、やっかいなウイルスのように、いまもなお作動し続けている。
 そう考えれば、なぜ日教組が、大東亜戦争について“すべて日本が悪かった”と教えたがるのか、なぜGHQが押しつけた「日本国憲法」をあれほど絶対視するのか、なぜエネルギー立国を目指す原発に反対するのか、なぜジェンダー・フリーの名のもとに「男らしさ、女らしさ」を破壊しようとするのか、なぜ「教育基本法」の改正に反対するのか、すべての謎は解ける。本人たちは無自覚なまま、彼らは今もGHQの走狗であり続けているのである。・・ 中略・・ 「その国の未来を見たければ、その国の若者の姿を見ればいい」といわれる。これは換言すれば、ある国の「未来」を奪いたければ、その国の若者を潰せばいいということである。この点「革命」を夢見て出発した集団が、まず日本の教育界を支配することに努めたのはやはり巧妙な作戦であったといえる。「革命は銃口から生まれる」のみではない。・・引用ここまで
 本には三重県での出来事がメインに書かれているが、中に広島県立世羅高校の石川敏浩校長が卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱を拒否する広教祖との軋轢により卒業式前日の平成11年2月28日に自殺をされたことが書かれていた。このとき校長先生のお葬式には教職員誰一人として出席しなかったとのこと。本当に痛ましい事件で異常な事態であったことをよく覚えている。
 その後、平成11年8月9日に「国旗及び国歌に関する法律」が制定された。しかし当分の間、国歌斉唱の時、起立もしない、国歌も歌わない先生方が多くいたと報道されていた。今は良くなっているのだろうか。
その他、先生たちが職務中に組合活動をしても給料をもらっていたことが明らかになる。広教組でも同種のことが行われていたことが書かれていた。三重ではそれを返還するように交渉したが中々解決しなくて最後は寄付という形で決着したとか。あるいは歴史教科書の採択をめぐってGHQ史観(東京裁判史観)にもとずく教科書からそうでない「新しい教科書を作る会」扶桑社の教科書に切り替えることへの大抵抗などが書かれていた。
 私自身、東京裁判は違法な裁判と思っている。戦争が終わってから新たな法律を作って裁判を行うこと自体国際法違反で有り、米英中などの日本いじめである。当時のインドのパール判事が言うことが正しいと思う。
 この本を読み終えて感じたことは、あまりにも今の時代日本人は荒んでいる。最近のTV・新聞を見てもオレオレ詐欺、振り込み詐欺、先日の東京銀座で夕方人通りの多い時間帯に店に16歳から19歳の3人組が押し入り高級時計を盗む事件、刃物で通行人を襲う等とても昔では考えられないことが連日のように平気で起きている。これも著者が書いたようにGHQの置き土産なのだろうか? 心の教育というものが疎かにされているのだろう。

2023年05月11日

春の農作業 第2弾

 毎年のことであるがGWが近づくと夏野菜の植え付けをしなくてはと気持ちがはやる。今年も4月の早い時期に耕運機を使って「牛糞堆肥」、「こだわり健肥」、石灰を入れて耕し畝を作りマルチを貼って準備をした。
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そして4月23日に種屋(イケカク)に行き「なす」、「ししとう」、「ピーマン」、「ミニトマト」、「キュウリ」の苗を購入し、作付けを行った。トマトは例年4種類8株を購入していたが今年6株にした。と言うのも3月に作付けしたジャガイモの畑にトマトの実生の苗が生えてきたのでそれを移植することにして6株と少なめにした。ただ実生の苗はトマトの種類が何なのか、またちゃんと育つのかは分からない。何がなるのか楽しみである。
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そして27日にトマトとキュウリの支柱を立てた。後はキュウリのネット張りだけとなった。

 ところで、ダイレクト出版株式会社2023年1月16日 発行の「Renaissance Vol. 13」は『食がもたらす“病”〜日本の食 安全神話崩壊〜』という特集で多方面からの取り組みが記載されていた。どの記事も興味をそそるものばかりであったが、その中で「国際派日本人養成講座」編集長の伊勢雅臣氏の書かれた記事『「家族農業」こそ日本再生への道―― 一石三鳥の農業で豊かに暮らす』が私の農作業に関連していて良い記事であった。
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内容を紹介すると
現在食料品の値上げラッシュが続いており主な原因はコロナ禍やウクライナ戦争などにより輸入される穀物などの原材料価格が高騰した。日本の食料自給率は38%しかなく円安と海外の生産・供給トラブルは国民の生活を直撃する。この上中国の台湾侵攻でシーレーンが封鎖されると国民生活そのものが成り立たなくなると書いてある。またこの食糧自給率の低さは異常であり先進国では最低である。その一方で国内の農地は耕作放棄と荒廃が進んでおり、農林水産省の統計によると2020年の耕作面積437万ヘクタールのうち、8.7%、38万ヘクタールが利用されていないとのこと。これは埼玉県より広い面積である。さらに農業の従事者の高齢化も進んでいて、2021年の自営農業に従事している人は約130万人でその平均年齢は約68歳とのこと。新規就農者数は年間5万人強いますがそれを含めてもここ7年間で45万5000人も減少している。このペースが続けばあと20年足らずで農業従事者はゼロになってしまうと警鐘を鳴らしている。
 日本政府は「国内の農産物は価格的に輸入品に敵わないので(対抗するために)農地の大規模化が必要」という論調だが、実は国際社会は全く逆の方向を目指している。2017年の国連総会では、2019年〜2028年を「国連・家族農業の10年(THE UN DECADE OF FAMILY FARMING )」とすることが全会一致で可決された。
「家族農業」とは、家族労働が中心の農業を指し、世界中に約5億7000万ある農場のうち5億以上を占めており、食料の80%以上を供給している。まず資源効率において、家族農業は大規模農業よりもはるかに優れており、家族農業は世界の農業資源(土地・水・化石燃料)の25%を利用するだけで世界の食料の80%以上を生産することができるとのこと。一方の大規模農業は、農業資源の75%を消費しながら20%以下の食料しか提供していません。しかも生産された食料の3分の1が、長距離長期間に及ぶ輸送流通過程で有効に利用されずに廃棄されているとのこと。
ちなみに国連の「家族農業の10年」には
@ 各国が家族農業に係わる施策を進めると共にその経過を他国と共有すること。
A FAOなどの国際機関は各国等による活動計画の策定・展開を先導すること、等を求めている。
このことについて私はマスコミ等の報道を聞いた記憶は無い。
 『さらにアメリカやカナダでは、大量生産での生産性向上のためグリホサート(ラウンドアップ)という農薬が使われています。これは発がん性を疑われており、アメリカでも使用禁止を求める訴訟が起こされている危険性の高い農薬です。我が国の学校給食パンでは輸入小麦を使用している14製品中12製品でグリホサートが検出されたが、国産小麦を使った製品では検出されなかった。』と残留農薬の怖さについて注意喚起をしている。
「家族農業こそ効率的」で国連の採択した「家族農業の10年」はまさに我が国の農業の再生への道を示している。そのお手本として「日本一小さい専業農家」を自称する西田栄喜さんの事例が示されている。
『耕地面積が0.3ヘクタールとサッカーコートの半分くらいの大きさです。平均的な野菜農家の耕地は3ヘクタール以上ですから西田さんの畑はその10分の1という大きさです。そこに小さなビニールハウスが4棟立っています。この小さな規模で、奥さんと二人で50種以上の野菜を無農薬栽培し、野菜セットや漬物などの店舗直売やネット販売により、年間売り上げ1200万円、利益600万円を計上している。「夫婦と子供二人の田舎暮らしなら、今ぐらいの所得があれば、心身ともに豊かになれると実感しています」』とのこと。
 また食料自給という面でいえば家族農業(家族単位で農業を生業とする)というカタチにこだわらず、都市住民による家庭菜園を増やすという道もあります。ここで一例として、農業を知らない都市住民に向けて体験農園を提供している「株式会社マイファーム」が紹介されている。
『同社では、サラリーマンなどの本業を持つ人に対して、15平米(4.5坪)の土地を貸し、インストラクターが土作りから収穫まで手取り足取り教えてくれるというサービスを展開しています。しかも本業が忙しい時には、農作業を代行してくれるのです。同社はこの事業を京都から始め、近畿2府4県、東京、愛知、静岡と広げてきました。体験農園では無農薬で野菜を育てているので、野菜を収穫する時などは、あえて「採ったその場で、洗わずに食べてください」と指導します。すると参加している都市市民たち、「これが本物の野菜だったんだ!」と感動します。
同社では「6万人の人が体験農園を利用すれば、食料自給率が1%上がり、耕作放棄地38万ヘクタールの内2万ヘクタールが耕作地として回復する」と予測しています。』
 さらに著者は『たとえば同社のようなサービスを提供する会社が全国各地に多数誕生して、この20倍の利用者が集まったらどうでしょう。耕作地が40万ヘクタール増え、耕作放棄地は解消します。自給率は20%上がりますから、60%近くにまで増えます。近い将来、少子化や人口の地方分散が進めば、都会では人口が減少し、あちこちに空き地が出来るでしょう。それらを活用すれば都会でも手軽に家庭菜園を楽しめます。もともと、「小さな家でも庭をもって緑と共に暮らす」というのが、自然との和を大切にしてきた日本人の生活感覚です。今後は空き家はどしどし取り壊して家庭菜園にすることで、都市住民も緑に親しむ生活を送ることができ、それが災害時の食料供給源にもなります。
農業は、子供に情操教育を、成年に癒やしを与えてくれるだけでなく、高齢者には体を動かすことで健康をもたらしてくれます。』
西田さんに代表される「スモール・メリット」の家族農業や家庭菜園などを通じて、国民の健康を増進し、国土の豊かさを守り、食料輸入のリスクを軽減するという、一石三鳥を得ることができるのです。』と結んである。
 まさに私がしていることは国連の家族農業であり、食料自給率UPに繋がり日本国のために良いことをしているのだと実感できた。
 しかし昨今、政治家達は食料安全保障における農業の大切さを軽視しているとしか思えない。国会でLGBTの議論をすることも必要かも知れないがそれよりも生きること、すなわち食べることの方が先ではないかと思う。是非日本の農業が復活するようにして貰いたいものだ。


2023年04月29日

金婚式

 4月8日はお釈迦様の誕生日「花まつり」だが、私たち夫婦は今年結婚50年を迎えた。いわゆる金婚式である。振り返ってみると家内と出会ったのは丁度70年前、昭和28年4月に向島町立向島中央小学校に入学し同じクラス(1年1組)になったことである。しかし父親が公務員で転勤したため、私は6月末に三原小学校に転校した。三ヶ月の間に家内と口をきいたかどうかも覚えていない。家内も記憶に無かったようで小学校に入学した時のクラス写真が唯一証拠となっている。そして私は父親の転勤で小学校4年生の時、再び尾道に引っ越してきて栗原小学校に転校となる。昭和37年に尾道北高校に入学、昭和38年今から丁度60年前4月、高校2年生の時再び同じクラスになり再開。この時母親から家内が小学校の時同じクラスに在籍していたことを聞いた。
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 修学旅行の列車の中で「小学校1年生の時同じクラスだったね」と会話をし、家内も初めて聞く話であったようだ。その後も普通にクラスメートとして過ごしていた。
 卒業後私は広島大学、家内は広島女子大学に進学したことで時折広島在住の尾道北高同窓会で顔をあわす程度であった。
大学4年生の時家内の友人とその男友達が三段峡にドライブに行くので一緒に行きませんかと誘いを受け昭和43年8月15日に4人で出かけた。彼女の男友達は学科は違えど同じ工学部で同じ授業を受けたことも有り顔は見知っていた。その後、彼・彼女らは交際を続け昭和45年3月に結婚をした。私も家内も披露宴に招待され一緒に出席した。5月に家内にお見合いの話が持ち上がったが、見合いをしたくないが為見合い当日広島の下宿に電話してきて尾道に私は出かけた。家内が家にいなかった為見合いはキャンセルとなる。これを機会に私たちは付き合いを始めた。ただ次の年日立製作所に就職が決まっており、新入社員の身で直ぐに結婚できないと考え3〜4年待ってくれるように話す。今思えば申し訳なかった。
そして昭和48年4月8日に無事結婚式を挙げた。丁度知り合って20年目の節目の年であった。今から振り返ると10年ごとの節目に何かと縁があったのだと思う。
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何人もの人から「ご結婚はお見合いですか?それとも恋愛結婚ですか?」と聞かれることがあったが、家内はいつも「知り合い結婚です」と答えている。
 結婚してからの50年を振り返ると結婚できて良かったと思う。私が途中で会社を退職し「歯科医師になる」と言ったときも家内は反対せずに私の後を押してくれ、「子供を背負って生命保険の勧誘でもして支えます」と言ってくれた。実際はその様な状態にはならなくて済んだ。おかげで無事歯科医になれたし、開業したものの、医者や歯医者に知った人はなく暗中模索の中二人で悪戦苦闘をしながら何とか二人三脚でやってこられた。確かに50年の間には喧嘩をすることもあったが何とか乗り越えられたと思う。
 先月25日は私の誕生日で、沖縄の長男一家がやってきて2年振りに家族全員がそろいみんなでハッピー・バースデイを歌ってくれた。翌26日に家族全員で記念写真を写真館で撮影。その写真はまだ出来上がってこないが、写真館の人が私のスマホで取ってくれた写真を見ると二人から始まった家族は今や11人となっており感無量である。
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 先日、尾道の次男が娘の中学入学祝いと私たち夫婦の誕生祝い(ちなみに二人とも3月産まれ)と少し早いが金婚式の祝いとをかねて広島市白島にある日本料理店「なかしま」に連れて行ってくれた。料理も器も素晴らしく息子達の気持ちに感謝一杯である。
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 これからひ孫が産まれたりすると家族は増えてくるが、家内と私いつまで生きれるか分からないが出来るだけ多くのひ孫の顔も見てみたい。
昔からの言葉に「お前百までわしゃ九十九まで共に白髪が生えるまで」と言うのがあるが私は結構真っ白になっているし、家内も最近少し白いのが目立ってきている。
同年齢であるので日本の平均寿命を考えると女性の方が男性より6年ほど長生きをする。おそらくこの言葉のようにならないであろうが、老年離婚とならないように、これからも仲良く元気で出来るだけ長生きをしたいと改めて思った。
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レストランでフランス料理のフルコースとはならなかったが、近くの小料理屋で金婚式の祝杯を二人であげた。

2023年04月10日

ジャガイモ植え付け

 3月になり寒い冬も終わりに近づき、11月からほったらかしにしていた診療室裏の家庭菜園に草がかなり芽生えてきた。玉ねぎだけは元気に育っている。診療室の窓から見ているとその数が日に日に増えてきた。
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 例年なら2月の半ば過ぎから活動を開始するところ、エジプト旅行の疲れを取っていた。しかしもうこれ以上は待てないと思い、5日から草取りを開始した。9日には耕運機で耕し、東側には肥料も入れた。18日にジャガイモの作付けをする予定であったが、天気予報では18日が雨となっている。そこで慌てて12日に種芋を買いに行いく。
 一昨年は育てやすいと言われている「デジマ」を植えたが中々良い収穫が出来た。昨年も同じ物を買おうとしたが2021年8月の長崎県豪雨水害で種芋が入荷しないと言われ、昨年は「ニシユタカ」を植えた。これも良い収穫が出来た。今年は両方の種芋があったがデジマを植えることにした。ところが値段を見てびっくり一昨年デジマは100グラム当たり39円で、昨年のニシユタカは100グラム当たり45円であった。しかし今年はデジマもニシユタカも100グラム当たり58円である。世の中、何もかも値上っているが種芋にまでもその波が押し寄せているのには驚く、買わない訳にはいかずデジマを購入した。
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すぐさま家庭菜園にいき10時頃から作業開始。私の場合、ここ何年も同じ方法なのだが畝をつくつて植えるのでは無く、逆に幅15センチ程で深さ15センチ程度の溝を掘る。そして購入してきた種芋は半分に切って「じゃがいもシリカ」の灰をまぶす。そして掘った溝に切り口を下に向けて並べる。種芋の間隔を30センチ程度とした。
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畑全体には肥料は入れてあるがさらに芋と芋との間に牛糞堆肥を一つかみ置きその上に化成肥料「やさしい有機入り189」を一掴み置く。それから土をかけていき畑全体は平らになるようにする。
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 農作業日誌を見たら昨年も3月12日に植えていたのでぴったりである。
ジャガイモの芽は遅霜でやられることもあるがこの時期なら大丈夫であろう。3週間くらいで発芽し6月の始め頃には収穫できるのではないだろうか楽しみである。
これからは菜園の西側に肥料を入れどこに何を植えるか考えながら区画割をしなくてはと思っている。忙しくなりそうである。

2023年03月16日

初めてのエジプト旅行 PART9

 モーニングコール6:30、いよいよ観光最終日。カーテンを開けると昨日よりもはっきりとギザのピラミッドが見えた。朝食後、スーツケースはドアの外に出す。8:30バスにて出発。
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 今日は「エジプト考古学博物館」見学である。本来の予定は2022年11月オープン予定の「大エジプト博物館」見学であったが、まだオープンしておらず、考古学博物館見学となった。残念である。途中モハメッドアリモスクを観る。このモスクは1830年に建造されカイロのシンボルになったモスクである。ツアーの初日「エジプト文明博物館」から丘の上に見えていたのを思い出した。中の観光はなく外側から観ただけである。その後、考古学博物館に行く途中ナイル川の水を市内に運んでいた中世の水道橋を車窓から観た、一旦停車したところで急いで写真撮影。
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 エジプト考古博物館は1800年代考古学上貴重な芸術品が国外に流出しエジプトにとって文化的な痛手であった。1830年に有名な考古学者シャンポリオンがアル・パジャ、ムハンメド・アリにこうした文化財を収集・保存する機関を設立するように要請し、1834年に最初の博物館が建てられ、コレクションのカタログが作成されるようになった。その後色々の変遷を経て現在の場所に落ち着いたのは1902年のこと。現在収蔵品は20万点を超える。今後かなりの収蔵品が大エジプト博物館に移動するものと思われる。
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 考古学博物館に到着、ここではちょうど「ツタンカーメン王墓発掘100周年」で2階の特別室で展示会をしていた。まず1階の展示物から見て回る。まだ開館してまもなくの時間帯であったが多くの見物客でいっぱいであった。ちょうど昨日からエジプトでは学校が冬休みになったことから子供の見学者も結構いた。
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現地添乗員の方からその都度説明を受けたのだがあまり良く頭に入らない。
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大きなハトシェプスト女王の頭部像が目にとまる。つけ髭のひもが見える。高校の教科書に載っていた書記座像(サッカラの墳墓から出土、第4王朝期)」
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わずか7.5cmの高さしかないクフ王の像、クフ王の像はこれしかないという。一番大きなピラミッドを建造したのに比べてなんと小さいことか?
黒閃緑岩でできたカフラー王座像、王の首筋に鷹の姿をしたホルス神が寄り添っている
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メンカウラー王とハトホル、女神の像
上エジプトと下エジプトを統一したメンチュヘテプ2世像、赤い王冠をかぶっている。
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メンフィスの『最初の神官」カーペルの木像。「村長の像」の名でも知れている。
メイドゥーム出土、将軍と大神官ラーヘテブとネフェルトの像。
まだ色々写真に撮ったが誰の像なのかわからない物多数。
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 2階の「ツタンカーメン王墓発掘100周年」の特別展示室には現地添乗員さんは入場できない。しかもこの特別室での写真撮影は禁止で黄金のマスクなどは撮影出来なかった。特別室以外で日頃展示されているものは観ることが出来た。
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ツタンカーメンの金貼玉座は木の上に金を貼り、貴石をはめ込んだもので背もたれには王妃に香油を塗らせるツタンカーメン王の姿が装飾されている。
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ミイラ制作の時内臓を取り出し別途収納するカノプス壺とそれを守るイシス女神の木彫が彫られた金貼の木箱。
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玄室の入り口に2体立っていた像(「カー」)の一つでツタンカーメン王の「カー」は高さ1.73mの像で、ファラオが息を引き取った瞬間にカーが肉体から離れて不死の世界へ赴くところを表している。アヌビス神は彩色木彫で、耳と目、首輪には金が塗られている。これはツタンカーメンの墓の財宝番犬と言われている。
これらの展示物を見る限りファラオの権力・財力はとてつもなく大きかったのだと思う。
 この後、集合場所を教えられ1時間自由行動となった。色々見て回ったが予備知識が無くただ「へー」「すごい」などと思いながら観て廻った。パンを作っている小さな像やミイラの入っていた石棺など多数が展示されていた。
 集合後ナイル川河畔の魚料理のレストランに行く。メインは川魚の焼き魚であったが口に合わず2口食べただけである。
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その後カイロ空港に向けて移動。空港で現地添乗員さんと別れた。日本語が達者な方で本当に良かった。
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 関西空港ではワクチン証明書の提示が求められる。そのためあらかじめスマホでワクチンパスポートを申請してOKをもらっていたがスクショをして記憶させて無かったので出てこない。搭乗を待つ間、添乗員のOさに手伝ってもらい最初からやり直したが、中々OKの返事が日本から届かなかった。ぎりぎり出発時間近くに届きスクショの仕方を私は知らないので、ツアー仲間の若い人に頼んでしてもらう。良かった。
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 カイロからドバイは3時間半の飛行であった。阿部寛主演、映画「異動辞令は音楽隊」を鑑賞する。古いタイプの刑事が現場から左遷されて音楽隊に入るがどうしても刑事魂が抜けきらず、『ある事件を追い続けるその中で音楽隊を応援してくれる老女が宅配便を装った4人組の強盗に襲われて死ぬ。』まさに東京都狛江市で老女が殺害され現在捜査が進んでいる「ルフィ」関連の広域強盗事件と同じでは無いかと思った。結果はめでたしめでたしであった。ドバイで乗り継ぎ関空に向かう。飛行時間9時間で往路に比べ2時間15分早い。途中は阿部寛主演の「とんび」を観た。これも中々ジーンとくる内容で有った。
 関空着陸40~50分前に窓のシャッターが自動で開けられ外を見ると四国上空を飛んでいた。久しぶりに見る日本の国土であった。無事着陸。出発ロビーが仕切られスマホのワクチンパスポートを見せながら歩いていく。ものすごく多くの係官がいてびっくり。税関のところでは前もって登録したQRコードもあったが、そちらの窓口は多くの人が並んでいたので機内で書いていた紙の申告書を出しスムーズに通過できた。デジタル派よりもアナログ派の方が早く荷物を受け取りクロネコヤマトのカウンターで宅配手続きをして関空を後にする。いつものことだが新幹線は「こだま」にしている。これだと大阪始発なので自由席に乗れるし、途中乗り換え無しで帰れる。無事21時過ぎに帰宅。疲れた。
しかし今までで一番記憶に残る旅行で有った。

2023年03月02日

初めてのエジプト旅行 PART8

 昼食後バスにてクフ王のピラミッドに向かう。途中雲の切れ目から日が差し込んできてカフラー王のピラミッドが黄金色に輝いて見えた。なんと素晴らしい光景なのかと驚く。
ところで通称「ギザの3大ピラミッド」と言われているが、クフ王とメンカウラー王のピラミッドにはそれぞれ3つの衛星ピラミッドがあり「9ピラミッド」とも言われているようだ。
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 またピラミッドは建造当時、全面表装石で覆われていたが現在はカフラー王のピラミッドの頂上部に残っているだけで、後は永年のうちに脱落したようだ。ただしクフ王のピラミッドの入り口の1段目の一部が修復されて表装石で覆われている。
 クフ王のピラミッドは底辺が230m、高さが建造当時146mであったが現在は137mで頂上部分に幅10m四方の広場が出来ているとか。
入り口と反対側でバスから降りて底辺に沿って歩きながら入り口へと向かう。
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 現在の入り口は写真に有るように人が集まっているところだが本来の入り口ではない。正式な入り口は少し上にあり現在は閉鎖されている。現在の入り口は昔、盗賊が開けた穴で途中から正式な大回廊に繋がっている。盗掘されて出来た穴は高さが低くてしゃがみながら通らないと行けない。しかも細い階段を上る人、降りる人がいて体をよけながら上っていく。私のように背が高く(181cm)で後期高齢者となった身には身体をひねるのも容易ではない。何度か頭を小突きながら登った。途中から正式な大回廊に出ると高さの心配は無いが相変わらず階段は狭く勾配もきつい。やっと王の間(玄室)にたどりつく。
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 そこには石棺があっただけで壁の装飾も何も無い。写真を撮る。今来た道を滑らないように降りていく。それにしてもピラミッドの中を実際に歩けたと事、また中をこの目で見ることが出来た事は本当に驚きであり嬉しかった。
 その後スフインクスエリアに移動、最も歩いていける距離であるがバスの都合でそこまで移動。いよいよスフインクスともご対面。通常はスフインクスを対岸から観光するのだが、我々のツアーでは特別区域に入場し足元まで行き観光できた。このスフインクスはカフラー王のピラミッドの付属物で、スフインクスの背後にカフラー王のピラミッドがよく見える。
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 スフインクスは高さ21m、長さ73.5mで、岩山を丸ごと掘って作られた。このスフインクス(顔が人間、体はライオン)はカフラー王の肖像では無いかと言われている。顔は約5m、鼻の基部は2mある。トトメス4世が加えた付け髭は現在カイロの考古学博物館に保管されている。鼻がないのは通説ではナポレオンがエジプト遠征に来たとき大砲を撃って吹き飛ばしたと言われているが、現地添乗員の解説ではマムルーク時代にアラブ人によって砲撃練習の標的にされていたためとの事。またこのスフインクスは何度も首まで砂で埋まり掘り起こされ修復された経緯がある。一番有名なのはトトメス4世が掘り出し修復したものでスフインクスの前足の間にその事情を説明する石碑が立っている。
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 それによると山の陰で昼寝をしていたらトトメス4世の夢の中にスフインクスが出てきて自分を砂の中から掘り出してくれるように頼んだという。
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 スフインクスの周りをぐるっと一周しながら前足、後ろ足、尻尾、お尻しりなどに触れながらその大きさを体感した。
 その後バスでギザの街にあるパピルス紙を販売しているお店に案内された。そこではパピルス紙の作り方を実演して見せてくれた。世界最古の紙がどのように作られたのか初めて知った。またパピルス紙に画かれた絵などを売っていた。
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 ところでルクソールの「王家の谷」を見学したとき現地添乗員さんから王家の谷の写真集(絵はがきスタイル)を案内されて買ったが旅行中は開きもしないで持って帰ってきた。帰って何日かして開いたところ、王家の谷のお墓に描かれていた壁画のカラー写真16枚と昔のエジプトを写した白黒写真16枚が入っていた。写真集のケースをよく見ると表に「ユニークな古いエジプトの黒白写真」と書いてある。今回の旅行で観てきた各地の遺跡、ルクソール、アブシンベル神殿、ピラミッドの直ぐ下まで運河があつた時の様子などが写されていた。古い時代おそらく1800年代頃の写真であろう。
 その中になんとスフインクスの前で27人ほどの侍が写っている写真が有った。
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 びっくり、とっさに頭に浮かんだのは2021年NHK大河ドラマの「晴天を衝け」で徳川慶喜の弟・昭武に随行して渋沢栄一達が1867年のパリ万博に出席する時、一行が立ち寄ったのではないかと思った。念のためインターネットで「エジプト・スフインクス・侍」で検索したら同じ写真がヒットした。それは1864年に江戸幕府が送った遣欧使節団の一行であつた。当時スエズ運河は出来ておらず(開通は1869年11月)紅海にあるスエズまでイギリスの軍艦に乗って来て、鉄道でカイロに行き15日ほどカイロに滞在したと記録が残っている。それからアレクサンドリヤを経て地中海を渡りフランスに行ったとのこと。使節団の任務は攘夷派の突き上げを受けた幕府が、鎖国を解いて開港した横浜港の再閉鎖交渉にパリに派遣されたが失敗に終わったため帰国後全員が謹慎処分を受けた。渋沢栄一らより3年前。それにしても159年前のそんな時代にスフインクスやピラミッドを観た日本人がいることに驚きである。この写真ではスフインクスはまだ半分砂に埋もれている。全部砂が取り除かれたのは1926年である。
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2023年02月26日

初めてのエジプト旅行 PART7

 6時モーニングコール。宿泊したホテルからピラミッドが見えるというのでカーテンを開けたら少し霞が掛かっていたが見えた。この目で初めて見たので大感激である。少しすると外が明るくなりよりはっきりと見えた。
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 まずダハシュールの屈折ピラミッドを観に行く。これは古王国時代第4王朝のファラオでクフ王の父であるスネフェル王のピラミットである。彼がつくった4番目のピラミットで有る。屈折していることから小さい頃からイメージをしていたピラミッドとは少し違った感覚を受けた。見学客は誰もいなくて我々が一番乗りであった。
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 次に1km北側にある彼が作った最後5番目の赤のピラミッドを見学する。これはまさにわたしがイメージしていたピラミッドで、壁面が二等辺三角形になっている方錐形の形を正真正銘のピラミッドであった。高さはクフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッドに次いで3番目に高い、名前の通り花崗岩が赤く見えることから名付けられた。最初から赤かったのでは無く建設当初は白い石灰石で覆われていた。その大部分は持ち去られ現在は基礎部分にその一部が残るのみである。ピラミッドの石に触ってその大きさを実感。
 次にサッカラに移動して階段ピラミッドを見学する。このピラミッドはエジプトで最古の物である。紀元前27世紀のエジプト王朝第2代ファラオのジョセル作らせた物で6層の階段状になっている。現地添乗員の話ではピラミッド以前の大きな方形の墓(マスタバ)を最初作ったが、遠くからよく見えないので上にさらにマスタバが積み重ねたとのこと。これが進化していわゆるピラミッドになったとか。
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階段ピラミッドの周囲には葬祭殿やセド祭殿(王の在位中に行われる王の再生の儀式)、柱廊のある建物などがある。ピラミッドを含めた全体で「ピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)と呼ばれている。ピラミッドの下からは数多くの美しい坑道や地下室が見つかっており、その中央の大井戸のような空間の底には花崗岩で出来た王の墓が置かれていた。
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 階段ピラミッドの先に崩れかけた丘のようなピラミッドがあるが、これはクフ王からおよそ2000年後のウスナ王のピラミッドで2016年から一般公開された。この墓の内部にはヒエログリフ(象形文字)が刻まれており、この文字はピラミッド・テキストと呼ばれ、初めてピラミッド内部に刻まれた物で、死せる王が無事冥界に行き着くための祈祷書である。
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 その後バスにて移動。途中絨毯を製作しているお店兼職業訓練校に移動。幼い子(小学校1年生位)の女の子が手で1本1本糸を通しながら織っていた。一見、児童虐待では無いかと思うがここで修行して手に職を付ければ将来自立生活が出来るので良いなとも思った。売っていた絨毯は中々の物でお値段もかなりしていた。ペルシャ絨毯との違いは分からない。
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 その後ギザに移動、いよいよ3大ピラミットとご対面である。現地添乗員さんから写真撮影について一言注意があり、ピラミッドエリア内でラクダや馬を撮影する時はおおっぴらに撮影するとチップを要求されるので気をつけるようにと言われた。写真はバスの車窓からこっそりと撮影したものである。
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 まずはピラミットエリア内にある「9ピラミットラウンジ」で食事。ここは2020年10月にオープンしたものでラウンジの中からもピラミッドが見渡せ、食事をしながら観ることが出来る最高の場所のようであった。食事代はツアー代金に含まれるのでいくらかは分からないが、ビールの値段がルクソールなどと比べると2倍であった。多分場所代が大分含まれているのだろう。食後ラウンジから見えるピラミッドを写真撮影した。
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 画面左からクフ王、正面がカフラー王、右がメンカウラー王のピラミッドで、いよいよクフ王のピラミッド内部を観にいく。
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2023年02月23日

初めてのエジプト旅行 PART6

 朝5時15分モーニングコール。今日の予定は夜明けのアブ・シンベル神殿の観光、そして朝食後バスでアスワンに戻り昼食後空路カイロに帰る予定である。
 朝は冷えるので防寒対策をして出かけた。日の出前のアブ・シンベル神殿は昨夜観たのとまた違った感覚である。ナセル湖の向こうから日が昇りだし、神殿に朝日が当たると輝いて見えた。
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 ところでアブ・シンベル神殿の名前は中学生の頃から聞いていた。当時のナセル大統領がアスワンハイダムを造ることで水位が上がりこの神殿が水没すると新聞で大きく報じられていた。1960年から工事が始まり最初は遺跡をすべて水没させる計画であったが、世界中から反対の声が上がりユネスコが中心になり世界に呼びかけ保存へと舵を切った。色々の保存方法案が出たが最終的にイタリア案が採用され、遺跡をおよそ1000個のブロックに切断して65m上方にそして約200m西方に移築することになり1964年から1968年まで足かけ5年の大工事で有った。
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写真は現地で買ったガイドブック「アブ・シンベル神殿」からの転載である。このアブ・シンベル神殿の保存が1972年のユネスコの世界遺産創設のきっかけとなったことでも有名である。
 アブ・シンベル神殿は1813年ヌビアを旅していたスイスの探検家ブルクハルトが現地のアラビア人に教えられ初めて小神殿にたどり着いた。その後1816年にイタリア人のベルツォーニが来たが砂が取り除けなくて翌年再度やってきて砂を除き神殿の入り口を発見し中に入った。
 アブ・シンベル神殿は第19王朝のラムセス2世(BC1279−1212年)が建立した。東に向いたナイル川の西岸に張り出した砂岩の岩山を切り出して掘られたもので、岩窟神殿である。正面の大きな座像はすべてラムセス2世で左から年齢順に並んでいるとのこと、残念ながら左から2番目の像はこの神殿が出来て7年後の地震で壊れたとされ、耳がついている頭部が足下に転がっている。
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 入り口の横壁には上下エジプト統一の儀式「セマ・タウイの儀式」が描かれており、中に入ると左右に両手を交差させた冥界の支配者オシリスの神の姿をしたラムセス2世が左右4個並ぶ大列柱室、その奥に第2列柱室さらに前室と続き最後に至聖所がある。
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 ここ至聖所には4体の神の座像がある。左から(頭が破壊されている)プタハ神、2枚の大きな羽根をつけたアメン・ラー神、ラムセス2世、ハヤブサの頭部を持つ太陽神ラー・ホルアクティである。年2回春分のまえ25日と秋分の後25日後の数日間だけ朝日がこの座ぞうのところまで差し込むように設計されている。ただし一番左のプタハ神は闇の神であるために光は当たらないとのこと。私が見学していたときは大列柱まで光が差し込んでいた。多くの壁画があり、シリアの城塞を攻める絵やヒッタイトとの戦いの絵、ラムセス2世がホルス神にパンを捧げている壁画などがあった。
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 次に小神殿に行く。この神殿は王妃ネフェルタリとアブ・シンベルの地方神ハトフルに捧げられたもので、内部は多くの壁画が描かれている。写真はラムセス2世が敵軍ヌビア人の捕虜をこん棒で打ち据えている、その前でアメン・ラー神が王に勝利の短剣を差し出し、ラムセス2世の背後には王妃ネフェルタリが控えている。
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この後、ホテルで朝食後再び3時間のバス移動でアスワンの街に到着、そしてナイル川中州にあるレストランにて昼食を取る。
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 その後アスワン飛行場からカイロ空港に向けて移動(約1時間半)。それからまたバスにてギザのハイアット・リージェンシー・カイロ・ウェストホテルに向けて移動。ところが 1時間ほどで行ける距離を大渋滞で2時間かかる。
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エジプトにはほとんど信号機が無い。片側5車線のところを7車線位のつもりで走り、割り込みもすごい。そんな中、人は道路を横切るのに横断歩道もないし信号もないところを渡っている。驚きである。日本では考えられない。
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 チェックイン後、食事になる。その際、私はサラダを食べていたら何か堅いものが舌にあたった。はき出してみたらお皿の欠けた破折片が出て来た。添乗員さんに報告したらホテルの責任者が申し訳ないと謝りに来てくれた。そして飲んでいたビール代金5ドルをチャラにしてくれた。おそらくひびが入っていたのが気づかなかったのであろう。幸いけがが無くて良かった。
明日はいよいよこの旅行の目玉であるピラミド見学である。
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2023年02月19日

初めてのエジプト旅行 PART5

 朝5時半モーニングコール。無事船はアスワンに到着していた。朝食後クルーズ船をチェックアウトしバスにてアスワンの観光に出かける。ここアスワンは花崗岩が多く採れるところで、昨日まで観た遺跡の中にもこのアスワンから運ばれた石が多くあった。最初に花崗岩の石切場に行き、未完成のオベリスクの石を観た。この石は切り出し中にひびが入って途中止めをし、放置されていた。
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 その後Goldを販売しているお店に案内された。カルトゥーシュ(簡単に言えば名札)のペンダントなどが売られていた。各遺跡や王墓にはファラオの名前が彫られたカルトゥーシュがありこれでファラオの名前が特定出来たとのこと。
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 その後アスワンダム湖の中のアギルキア島にあるイシス神殿に船でいく。イシス神は「愛と豊穣の女神」である。この神殿はもともと500m程離れたフィラエ島にあったがアスワンダムが出来て水没、さらにハイダムの建設によりさらに水の被害が出ることで、アギルキア島に解体されて湖より高いところに移築された。柱には水に犯された跡が黒く変色して残っている。
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 その後いよいよアブシンベルに向かってバスで移動(3時間超)するが途中1カ所しかトイレ休憩が出来ないので今の内にトイレを済ますように言われ、家内と二人で10エジプトポンドを払い万全を期す。アスワンダムの堰堤が道路となっておりその上を通る。さらに進むとソ連が援助して建設したアスワンハイダムの堰堤に出る。中程で停車して写真撮影。ここから先ほど見学したアスワン湖のイシス神殿が見えた。
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 ここはエジプトにとって電力インフラの最前線で、警察ではなく軍隊が24時間体制で警戒している。この様子を撮影したりすると拘束されるので注意するように言われた。
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 砂漠の中を道路がほぼまっすぐに貫いている。また道路に沿って送電用の鉄塔が建っている。現地添乗員さんの話ではサハラ砂漠と一口で言われるが、それぞれ地域、地域の名前が付いていて全体でサハラ砂漠と言っている。ところで「サハラ」とは現地語で砂漠を意味しており日本語に直すと「砂漠砂漠」という意味なのだとか。また運転席上の電光掲示板には32℃の表示が出ている。20℃前後のカイロとは大違いである。
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 1時間半ほど走ったところで砂漠の中に黒い小山のような塊が転々としている。きけば溶岩の塊だとか。しかもその小山の下に水があるように光っている。蜃気楼である。日本でも富山湾で蜃気楼が見えると聞いていたが実際に観るのは初めてであった。そしてバスは北回帰線(北緯23度27分)上で停車、写真を撮る。
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 さらにしばらく行くとトイレ休憩の小さな小屋が有りそこでチップを渡し用を足す。添乗員さんがここの砂はサラサラできめ細かい、どうぞ少しお持ち帰り下さいというので一握りつかんでビニール袋に入れ持ち帰る。
 さらにアブシンベルに向かってバスは走り出したが、砂漠の中に所々緑が見えてくる。ナセル湖はアスワンハイダムの建設で出来た人造湖で、湖から用水路を引きその水をくみ上げて砂漠に散布し小麦や大麦を育てる政府の「砂漠緑化計画」とのこと、2年前くらいから始まった。
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 ナセル湖は総延長500kmに及びどこからでも用水路を作ることが出来る。アフガニスタンで活躍された中村先生達を思い出す。ちなみにエジプトは国土の80%が砂漠である。この緑化計画が進むと砂漠が緑の大地に変わり大麦・小麦が増産され輸出大国になるのではと思う。
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 13時半頃アブシンベルの街に到着。エジプト(ヌビア地方)の郷土料理を食べる。その後ホテル「セティ」にチェックインこのホテルはコテージ型であった。
夕方、ナセル湖のサンセットクルーズが予定されていたが強風のため運行中止。そこでホテルからナセル湖の向こうに沈むサンセットを観た。
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 その後、夜アブシンベル神殿で行われた「音と光のシヨー」を観に行く。大神殿と小神殿にプロジェクションマッピングでエジプトの歴史画像が映し出されていた。ショーの解説音声はその日の最多観客数の国の言語で放送される。残念ながら当日はスペイン語であった。我々は日本語のイヤホンガイドで聞いた。ショーのあとアブシンベル大神殿と小神殿がライトアップされた。それを見ながら帰途につく。
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明日アブシンベル神殿の内部を観たりする予定である。
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2023年02月18日

初めてのエジプトド旅行 PART4

 朝6時モーニングコール、クルーズ船はエドフの河岸に停泊していた。7:30下船してバスにてファラオの守護神(ハヤブサ)を奉るホルス神殿の観光に向かう。
途中馬車が多い、ここでは観光客や住民の移動に利用されているとか。
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 このホルス神殿は現在エジプト国内で最も原型をとどめている神殿と言われている。ハヤブサの姿をしたホルス神に捧げられた神殿で中に入ると正面には1対のホルス像があったが現在は左の黒大理石で出来た石像が残っている。
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 この神殿の第2室以降は屋根がついておりグレコ・ローマン時代(2300年以前)に造られた建物である。1時間の観光であったが、家内がトイレに行きたくなり、少し早めに切り上げ集合場所にいく。ここエジプトではトイレを利用するときはチップが必要で大抵は5エジプトポンド(日本円で25円程度)が必要である。そのため現地添乗員さんが出来るだけチップを払わなくて済むように、無料トイレの案内をしてくれていた。ついでにトイレ事情について述べると基本的には洋式水洗トイレであるが、日本のように用便をした後水(お湯)で肛門を洗うシャワートイレでは無い。もちろん暖か便座の機能や、シャワー時のムーブメントやマッサージ機能、乾燥機能などは無い。用を達した後便器に水を流すだけ。それと最も重要なことはおしりを拭いたトイレットペーパーを便器の中に捨ててはいけない。横に置いてあるゴミ箱に捨てるようになっている。これはトイレットペーパーを流すとトイレが詰まるからとのこと、トイレットペーパーも日本のように薄くてしなやかではない。厚くごわごわした感じのものであった。日本の便器の良さは以前観た阿部寛主演の映画「テルマエ・ロマエ」で紹介されていた。TOTOやinaxはもっと世界に打って出ればかなりの売り上げが期待できるであろうに。靴を履いていないから靴は売れないと考えるか、履いてないからこれから売れると考えるかの違いであろう。
 観光後クルーズ船に戻り、現地添乗員からエジプト綿のT-シャツや、ポロシャツの販売案内があった。家族のポロシャツを購入。右胸にジャッカルの刺繍と背中に各自の名前を象形文字で刺繍してもらうことに。現物はカイロに戻って受け取ることになる。
 10時半頃次の観光地コム・オンボに向けて出航。昼ご飯もバイキングである。少し飽きてきた。窓からナイル川の岸辺を観ながらゆっくりした。相変わらず物売りの船がやってきていた。岸辺の景色も昨日とはかなり異なってきた。
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 夕方4時頃コム・オンボ到着。歩いてコム・オンボ神殿に行く。ここにはワニの頭をしたソクベ神とハヤブサのハロエルス神(大ホルス神)2神が奉られており神殿が2重構造になっている。
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 まず左半分のホルス神の方を観た。2300年頃に立て直されて病院としても使用されていたようで壁画には座ってお産をする様子や添乗員さんが指で示している所には今とあまり変わらない当時の抜歯鉗子が描かれており興味深く観た。
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 また井戸のような穴があり、ナイル川の水位を観るナイロメーターだと説明を受けた。その後「クロコダイル博物館」に行きワニのミイラが展示されているところを見て回った。ちなみに現在ナイル川にはワニは生息していないがアスワンダム湖にいるとのこと。
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クルーズ船にもどりバイキングスタイルの夕食を済ませたバイキング料理は品数豊富でどれを食べるか選択に迷う。でも毎日朝・昼・晩とバイキングだと飽きてしまう。
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その後最後の夜と言うことで、船内ラウンジでガラベイヤーパーティーがあった。これは民族衣装のガラベイヤーを着たりして踊ることなのだが、別に普通の服でかまわないし、踊りも好き勝手にやることのようだ、小一時間参加した。船は最後の目的地アスワンに向けて航行。クルーズ船泊も今夜が最後。
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2023年02月15日

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