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致知別冊「母」2024を読んだ。今回のテーマは「母の力 子育ての人間学」であった。 子育てと聞くと私は失格で黙る以外にないが、この本ではいろいろの人が子育てに工夫を凝らしれおられる。 第2章「母の力」の中で「幸せに生きる言葉の力」と題して俳優の木村拓哉氏の母親 木村まさ子様が書かれていた。 彼女のプロフィールは昭和25年東京都生まれ。20歳の時に結婚し、22歳で長男・拓哉さんを、29歳で次男・俊作さんを出産。現在は「言の葉語り」として講演で全国を回り、朗読会にも力を注いでいる。子供の心に届く言葉を親が語りかけることや自尊心を育むことがいかに大切かを伝えている。NPO法人「エフ・フィールド」理事として「いのちの授業」の活動にも協力。幅広く活躍されている。 いかにして現在の活動をするようになったのかその切っ掛けの一部を転載します。 「かく言う私も、自己肯定感の低い時がありました。私は昭和25年生まれです。当時は今と違って、結婚して嫁に入ったら『いつでも遊びに来ていいが、二度と帰ってくるな』と父に言われる時代でした。それだけの覚悟を持て、という意味だったと思います。 また、嫁いだらその家に染まるというのが当たり前で、『私はこう思う』と軽々しく言えない時代でした。 夫は猛烈社員で朝早くから夜遅くまで仕事で家にいない。対等に話し合う時間がない。それを仕方ないと愚痴一つ言わずに受け入れていたものの、もやもやしたものがぬぐいきれない。私の性格というか、私の魂が『それじゃないだろう』と言っているように感じるわけです。 葛藤を抱えて仕事を続けるうちに腸炎を患うなど体調が悪化していきました。そんなある日、友人に誘われて、癌や難病の治療を専門にしている水上治先生という方の講演を聴きに伺いました。 いろいろなお話の中で、『人のため、夫のために癌になる必要はないんです』という言葉がズシリと心に響きました。先生がそう表現するというのは、身近な人に対する不平不満が重なったり、自分の気持ちを素直に伝えられなかったりすることが病に繋がっているのかなと漠然と思いました。 それからというもの、『自分を大事にするとはどういうことか』について意識が向かっていくようになり、同時に不思議なことに、出逢う方々や入ってくる情報がどんどん変わって行きました。 これまで自分のことを一番後回しにしてきたけれども、まず自分自身を認めて大切にし、自分で自分を愛する、慈しむ。例えば、きょうも朝、目が覚めて生きていること。寝ている間も肺が呼吸をし、心臓が血液を送り、細胞が働き続けているのは、自ら意識的に行っているわけではありません。そのようなことを重ねてみた時に、私たちは大いなるものに生かされている。本当にありがたいなと気づくようになったのです。 そうやって自分の身体や存在に『ありがとう』や『嬉しい』や『大好き』といった言葉掛けをしているうちに、自分自身が喜ぶのはもちろんのこと、私に命を繋いでくれたご先祖様が一番喜んでくれるんじゃないかと思い、ものすごく生きる力をいただきました。」とあった。
ところで私も家内も昭和22年生まれで、木村様と同じ時代である。この時代、多くは父親が働きに出て収入を得るが母親は家庭にあって家事と育児に専念するスタイルが一般的であった。両親もそのスタイルであったから私も何も考えずにそのスタイルを通した。息子達が生まれたころ私は日立製作所で猛烈社員として働いていた。そのため育児はほとんど家内任せで、子供が夜泣きをすれば抱っこして外に連れ出して寝つくまで家の周りを歩き家内の負担を少し和らげる程度で、たまの休みは親子で出かけることはあっても本当に家内におんぶに抱っこであった。 とりわけこどもが4歳と2歳になったとき私は会社を辞めて歯科医師になるために大学に入り直した。その時の入学金、学費、生活費は家内の親戚からお借りしての状態で、絶対に留年しない、国家試験には一発で合格しなければならないと悲壮感で過ごしていた。その為、家内は冬休み正月でも朝早くから近くのスキー場に子供二人を連れて行き、私の勉強を邪魔しないような環境を造ってくれたりしていた。そういう意味で子育てに関しては家内に頭が上がらないし本当によくやってくれたと思う。 心の中におそらく木村様と同じような葛藤もあったであろうし、そのことに気がつきもしないし、それをどの様に克服したのかも解らない。本当によく頑張って育ててくれたものと思う。 この記事の中で木村様は「上皇后陛下・美智子様が浩宮様(現在の天皇陛下)をご出産された時、『お預かりし、お育て申し上げます』おっしゃっていましたが、そのお言葉が甦ってきて、たとえ自分が産んだ子供であっても、それは自分の子供じゃない。子供は神様からの預かり物だと捉えるようになりました。」と書かれている。おそらくご子息を育てられる時その気持ちでもって育てられたのではないだろうか。 最近のニュースなどを見ていると我が子に暴力を振るって死に至らすような事件が報道されているが、子供さんを神様からの預かり物だと皆が思えるようになるとこのような事件もなくなるのであろう。 本当に考えさせられる特集記事であった。
2024年08月25日
この夏札幌に2回出張があった。1回目はコロナの時期を除いて30年くらい続いている会議である。私は北海道医療大学後援会中四国支部長を拝命していて、この支部長会議が毎年この時期にある。この会議では大学の状況や今年度の入学試験受験者数、入学者数の推移などの報告を受け学生達の生活ぶり、各学部の国家試験対策の状況などの報告を受ける。また10月には全国15の会場で地区別懇談会が開催され各学部の教授が手分けして出かけご父兄と直接面談され学生の生活振りや成績に付いて懇談される。広島での地区別懇談会には私も出席してご父兄とお話をし、何かあればアドバイスなどをさせて頂く。 支部長会議後、懇親会があり、理事長をはじめ学長、各学部長の先生方や大学の理事の先生方も出席されていた。理事長からは2028年の大学の北広島市移転計画について話があった。来年からはいよいよ工事も始まるようだ。 翌日15:00発のJALで帰ることにしていたのでホテルの近くの北海道庁の建物を見に行った。昨年と同じで、工事中のため赤煉瓦の建物を描いたシートで覆われていた。蓮の咲いている池などを見たあと大通公園を散歩がてら歩いてみた。 丁度花フェスタの最終日であったが色いろのガーデニングなどがあり観て楽しんだ。 そして7月27日にも札幌に出張した。これは北海道医療大学歯学部同窓会の理事会出席のためである。私は2017年から同窓会の副会長に就任したことによるが、就任した頃は春と夏に年2回の理事会が札幌で有り出張していた。しかしコロナの時期はZOOMでオンライン会議となっていたが、昨年から夏だけ対面という方式に変更になった。今年は同窓会設立40周年で10月には40周年式典がある。今回の理事会でもその記念式典の経過報告などがあった。概ね問題なく準備が進んでいるようである。 翌日は同級生で千歳で開業しているU君と会った。毎年会っているが、昨年は日ハムのエスコンフィールドの見学に連れて行って貰った。今年は私をどこに連れて行こうかと思案していたようであるが余市に連れて行ってくれた。北海道に住んでいたが余市は積丹の神恵内にキャンプに行ったとき通り過ぎただけの街でであった。 U君が余市を選んだのは宇宙飛行士の毛利衛氏が余市出身であるため、余市宇宙記念館があること、またNHK朝ドラの「マッサン」で有名なニッカウヰスキーの工場があることなどを考慮したとのこと。まず記念館に入りいろいろの展示物を観た。 小惑星探査機「はやぶさ」1/1のモデルや「はやぶさ2」が岩石を持ち帰った再突入カプセル、1/20の宇宙ステーションの模型、などを観た。展示場の横の売店に宇宙ステーションでも食べられているパンの缶詰などが売られておりU君が買って渡してくれた。
隣の敷地にはニッカウヰスキーの工場があった。工場見学は前もって予約をしないと見学できないとのこと。工場横の展示場に行くとウヰスキーの製造工程などの展示があり熟成年代別にウイスキーが透明の瓶に詰められて展示されており年代物ほど濃い色になっていた。また試飲コーナーがあったが、広島空港から家まで車を運転して帰らなくてはならないので残念ながら試飲はパスした。 そして13時過ぎに空港まで送って貰い別れた。 前回もそうであったが梅雨前線の影響で飛行機の出発が遅れた。窓からは一面雲しか見えなかったが能登半島付近で少し眼下に海が見えてきた。若狭湾では天橋立を見る事が出来たが中国山地を横切る頃は入道雲がいっぱいあった。
そうこうする内に海が見えてきたら何と尾道水道である。通常飛行機は東側から空港にアプローチするため私の診療室の少し北側が飛行ルートになっている。今回は風の関係か西側から空港に入るようで、飛行機は向島と因島の間あたりを飛行しているようであった。 尾道水道を見ていると「尾道大橋」と「しまなみ海道」の「新尾道大橋」とが並んで見えた。また少し行ったところでは尾道商業高校のグランドや吉和小学校のグランドも見えた。 そして予想通り東広島市西条でUターンして無事広島空港に着陸した。
2024年08月05日