AM9:00〜PM0:45PM2:00〜PM6:20
木・日・祝日
朝5:00起床、バイキングスタイルの朝食後7:00にホテルを出発。バスにてエーゲ海最大の遺跡が残るエフェソスへ向かう。およそ250km/約4時間の行程である。ホテルの入り口には宿泊しているお客様の国の国旗が掲揚されているが中央にあるトルコ国旗は昨日我々が到着したときは半旗であったが今日は普通どおりに掲揚されていた。添乗員のGさんによれば19日にイランの大統領がヘリコプター事故で亡くなられた事によるトルコ政府の弔慰であったとのこと。 1時間ほど走ったところで1回目のトイレ休憩があった。そこのコンビニで何と日本の巻き寿司がパックされて売られている事に驚いた。 休憩後バスにて先に進むと、革製品製造会社兼お店で2回目のトイレ休憩をした。そこで革製品のファッションショウを見る。モデルの他に我々観光客の中から何人かが呼ばれて、にわかモデルになりショウを盛り上げていた。その後お店で革製品のコートやブレザーなどのショッピング案内があった。家内にどうかと勧めてみたがノーサンキュウとのこと。何人かは購入されたようだ。 その後バスにてローカルレストランに移動。今日の昼食はトルコから世界中に広がった名物料理・シシケバブ(エーゲ海地方セルチュク村のシシケバブはチョップシシと呼ばれている)であった。竹串に刺した一口サイズのお肉の串焼きは、まるで日本の焼き鳥のような感じであった。 食後バスにて移動やっとエフェソスに到着。 エフェソスは東西交易の集積港として栄えた。紀元前2世紀から紀元後2世紀頃の建造物が並び保存状態も良い。南側の出入り口から北側の出入り口に向かうルートで見学を行う。 入ると広場がありまず右手にアーチが今も残る2世紀に建てられたヴァリウスの浴場がある。左手にすすむと小規模な音楽堂似たオデオンがあり、1500人を収容し劇やコンサートが上演されたほか、議会所としても使われたという。 オデオンの横にはエフェスの市庁舎「プリタネイオン」があり、紀元前3世紀の建築からビザンチン時代まで増改築が行われた。竈の神で、国家体制の鎮護神として崇拝された、ウェスタ女神の聖火を灯し続けていた。 市庁舎から下るとメインストリートのクレテス通りに繋がる道にでてくる。さらに進むとクレステ通りの入り口を守る半神半人の英雄ヘラクレスが彫り込まれた門が有りここからクレステ通りが始まる。この門のすぐ上のドミティアヌス広場にある、勝利の女神ニケの飛んでいる姿が彫られた三角形のレリーフは、このヘラクレス門の上部を飾っていたもので、4世紀前半に造られたとみられています。ちなみに勝利の女神ニケはあのナイキのロゴの由来となっている女神でもあります。 途中建物跡の前に置かれていた石の彫刻を見る。多分そこにあった家の看板か何かではないのだろうか。さらに石造りのアーチ型のくぼみ遺構は商店で有ったとのこと。 さらに進むと紀元1世紀にトラヤヌス帝に捧げるために建設された泉「トラヤヌスの泉」があり、かってその正面には皇帝像が置かれ、その足下から水が流れ出ていたといわれる。現在も足の一部が残っている。 さらに進むとハドリアヌス神殿がある。138年頃、エフェス市民クインティリウスが皇帝ハドリアヌスに献上した神殿。2世紀前半のコリント式神殿で小規模ではあっても壁の装飾と浮き彫りは唯一無二の美しさといって良い正面の2重のアーチには、手前に女神ティケ、奥にはメドゥーサのレリーフが見られる。 神殿の横の細い道を入ったところにある公衆トイレは、古代、人々が隣同士、隔てもない開放的な空間で並んで用を足っした事実を物語って興味深い。しかも水洗便所であった。 そこから元のクレスタ通りに出てくると目の前にセルシュウス図書館が見えた。2世紀の初頭、エフェスを首府とするアジア州の総督だったセルススの功績を記念して、息子が建てた図書館。発掘中にほぼ全ての部分が見つかった事から、過去の壮大な姿そのままに、今私たちの前に立ちはだかっている。コンポジット式の柱が美しい建物正面には、知恵や美徳を象徴する4体の女性像(複製・オリジナルはウイーンの博物館に有る)が並ぶ。2万冊の蔵書を誇ったという。 ここから右は大理石通りが始まる。先ほどの図書館の横は娼婦宿で2階建ての建物で内部のサロンには愛と美の女神像があったとのこと。 この大理石通りを大劇場に向かう途中。大理石の上に娼館への案内図として足は方向、十字は十字路女性は娼館、ハートは愛を表していると言われる謎の案内図が大理石に刻まれている。客を娼館に案内するためのものだったと言われているが詳しい事実はわかっていない。 さらに進むと商業アゴラとも呼ばれる下のアゴラがあり奴隷売買をはじめとするあらゆる商取引が行われていた。大理石通りの終点は大劇場である。24000人を収容したトルコでも最大級の円形劇場で紀元前3世紀に建築され歴代の皇帝により増改築が行われた。客席はパナユル山の斜面に寄りかかるように設けられて、音響効果も抜群だったという。その後、劇場体育館の横を通り北口出口に出る。 バスに乗り次の観光地パッカレムへ向かう。およそ180km/約3時間の行程である。 目的地近くになると畑の向こうの小高い丘の途中に白い帯状のものが見えてきた。 「るるぶトルコ」の説明によれば『パムッカレはトルコ語で「綿の城」を意味するが小高い丘の斜面を覆い尽くす純白の石灰層が最大の見どころ。その正体は斜面を流れ落ちる温泉の石灰成分が沈殿、凝結することにより形成された石灰華段丘。その規模は幅3km、高さ100m、厚さ300mにも及び、水をたたえる無数のプールが幻想的な景観をつくり出している。朝は真白く、夕日を浴びると赤みを帯びるなど、時間とともに刻々と表情を変える神秘的な風景を様々な角度から観賞したい、』とあった。上の石灰棚の写真はトルコ航空の広告からスクリーン・ショットした画像でこんなにも美しいのかと期待していた。 入場口に到着後、入場して少し歩くと古代都市ヒエラポリスの南のビザンチン門があり、ここは古代のヒエラポリスの遺跡があった。その遺跡の中を歩いて行くとパッカレムの棚田が見えてきた。 しかし棚田に水はなく真っ白の光景に驚く。ただしわずかに足湯が許されているところだけ少し水があり観光客が足湯を楽しんでいた。靴を脱いで足湯につかった。 足湯の湯はそれ程高くなくぬるま湯程度であった。 その後ホテルに向かう。今日のホテルも温泉と温泉プールがあり、日本から持ってきた水着を着て10分ほど温泉プールにつかった。泳いでみたが何年も泳いでいなかったせいか10mも泳げないビックリ。 続きは PART 6 へ
2024年06月27日
朝5:30起床、バイキングスタイルの朝食後8:00にホテルを出発。バスにてトロイに向かうおよそ330km/約5時間30分の行程である。トルコのヨーロッパ側、マルマラ海に沿って移動する。途中のトイレ休憩はガソリンスタンドとコンビニが一緒になったところである。イスタンブールを離れると農地が続く。そして所々にトルコ国旗があるが、今日は何故か国旗が半旗で掲げてあった。だれか偉い人がお亡くなりになったのかと思った。 アジアとヨーロッパを分けるダーダネルス海峡にかかる全長3563mの世界最長の吊橋「チャナッカレ大橋」を渡りアジア大陸に入る。ダーダネルス海峡は多くの船が行き来していた。 添乗員Gさんの話によればこの海峡では第一次世界大戦のとき英仏連合国軍がトルコに攻め込もうとしたが阻まれ11ヶ月(1915年2月19日〜1916年1月9日)の戦闘の後トルコ軍が勝ったことなどをトルコ人の彼女は少し誇らしそうに話してくれた。 その後昼食はトロイに行く途中のホテルのレストランで取り、昼食後バスにて移動しトロイ遺跡のあるヒサルルクの丘に到着。 入り口を入ったすぐの所(地図の@)に遺跡のシンボルであるトロイの木馬のレプリカが置かれているのだが現在修復中でその姿を見ることはできない。もっともこの木馬が修復中という情報は今年のはじめに知った。というのも2019年にハワイ旅行に行ったときの添乗員Sさんと家内が時折LINE(ライン)で連絡をしあっていて、彼女が2月にトルコツアーの添乗員でトルコに行ったら木馬がなかったと写真を送ってくれていた。 高校時代から一度は行ってみたいと思っていたトロイに来たと思うと感無量である。但し行きたいと思っていただけで実はトロイのことは何も知らなかった。 見学ルートにしたがって取り付けられている木製の板の上を歩きながら遺跡を見学していく。添乗員のGさんがこのトロイがある「ヒサルルクの丘」について説明をしてくれた。 トロイ遺跡は青銅器時代の紀元前3000年頃からローマ時代の西暦500年くらいまでの間戦争、火災、地震などで何度も倒壊しその都度瓦礫の上に新しい街が築かれていった。近年の発掘では9層に及ぶ古代都市の痕跡が明らかになった。元の地表から見れば15m以上たかさになっている。私はそんなことは全く知らず、トロイ戦争の後廃墟となって放置されたままになっていたのだと思っていた。そんなに同じ場所に何度も都市が再建されていたとは思いもせず驚いた。 ギリシャ神話ではこの地に存在した都市はイリオスやトロイアの名前で呼ばれていたこと、現在ではトロイの名称で広く知られている。紀元前6世紀のホメロスが「叙事詩」として「イーリアス」と「オデュッセイア」や書いたと言われているがこの「イーリアス」に出て来るトロイは神話上の伝説都市と思われていた。子供の頃「イーリアス」を読んでこれは神話なんかでないと思い続けたのがドイツ人のシュリーマンである。 1870年に彼は私財を投じてこのヒサルルクの丘を発掘し、都市遺構や数々の財宝を見つけ出す事に成功したことからトロイが実在したと証明された。但しシュリーマンは9層有る都市遺構の下から第2層がトロイと思い込んだがその後の発掘調査で現在では第6層(BC1300〜1180年頃)がトロイ戦争の舞台となったと見られている。 まず歩き始めてすぐに東の塔と城壁(第6市、BC1900〜1300年)の遺構(地図のA)が見えてくる。見事な石積みの城壁が続く。2つの城壁に挟まれた狭い通路の途中に門をもうけ、外敵の侵入を防いだ。トロイ最盛期の遺構の一つ。 石を積み上げた城壁に備えられていた東の塔。 次にアクロポリス内部に、城壁と平行して残る建物の遺構はメガロンと呼ばれている。1998〜99年に発掘された時点では、石の土台に建つレンガの壁が1.5メートル以上の高さで残されていた。2003年夏ここに保護用のルーフが取り付けられたので、今やオリジナルのレンガ遺構を壊す心配なく、メガロンハウスと城塞の壁が見学できる。 ところでトロイの遺跡には建物は残っていない。そのため多くの場所で石の土台とか石垣とかレンガの壁しかなく、どれも同じように見えてさっぱり解らない。 次にシュリーマンが初めて遺跡を発見した場所(第1市、紀元前3000〜2600年)を見る(地図のB)。発見当時、掘り進めた結果最下層の都市の遺跡が発見された。しかし掘り進めた結果、上にあった何層もの遺跡が破壊されてしまったとも言われる。 案内板に9層の断面図の模式図あった。その横には同じように発掘した地層が残されていたが手前が第2層その上が第3層と案内板があった。添乗員のGさんはシュリーマンが発掘した物はことごとくドイツに持っていかれトルコには何も無いと少し悔しそうに話していた。 さらに進むと城塞の南東と南西にも立派な門が有ったとのこと。特に南西の門に続く急傾斜の石畳の道が設けられていた。その一部は修復されている。おそらくギリシャ軍が残した木馬はこの坂道を引っ張り上げられ城塞に入ったと考えられている。 さらに進むと聖域(第8市、紀元前900〜350年)と呼ばれている神々に供物を捧げた場所に来る(地図のC)。ここは生け贄の儀式に使われた場所で井戸と祭壇が並び、アレキサンダー大王もここで供物を捧げたとされる。第8〜9市時代のもので、当時はトロイ初のギリシャ都市であった。 次にオデオン(第9市、紀元前350〜400年)と呼ばれる音楽や演劇、会議が行われていた小劇場の跡にくる(地図のD)。トロイ遺跡の中で最も保存状態がよく、ローマ時代に建てられたもので、当時は木製の屋根が付いており音響もよかったという。 かってはオデオンの他に大劇場もあったという。 さらに歩くと入り口近くのトロイの木馬の場所に戻ってきた(@)。ここで30分ほどのトイレ休憩と自由行動となった。トロイの象徴である木馬は紀元前1,200年、トロイ戦争の最中、退却していくアガメムノン率いるギリシャ軍が残した木馬にまさか兵が潜んでいるとも知らず夜襲を受けて陥落した。この木馬は1975年に復元され当時の大きさを再現していると言われていたが、木馬が揺れるようになったため修復を開始したらしい。 じっくりトロイの木馬を見たが足の大腿骨あたりに金属の補強板が取り付けてあった。 完成までにはもう少し時間が掛かるらしい。 その後バスにて宿泊先のホテル「アドリナ サーマル ヘルス&スパ」に向かう(150km/約2.5時間)。途中の道路の中央分離帯には夾竹桃の花が咲いていた。
このホテルにはプールがありその前にはエーゲ海が広がり遠浅の砂浜が続いていた。この砂場に立つとエーゲ海から吹くマリンブルーの風が感じられる。おそらく夏には観光客でさぞかし賑わうのであろう。 続きはPART 5へ
2024年06月22日
バスにて旧市街地にあるオスマン帝国皇帝の住居「トプカプ宮殿」に向かう。トプは大砲、カプは門を意味する。1472年コンスタンティノープルを制圧したメフメット2世によってイスタンブール市内で最も見晴らしのよい丘に建てられた。15〜19世紀にかけて、オスマン帝国の中心として国政が行われ、オスマン帝国歴代の君主スルタンとその家族たちがここで暮らした。 入り口でイヤホンガイドを渡されたが説明は添乗員のGさんがする。音声はよく聞こえた。帝王の門から入ると第一庭園がありそこをさらに進むと表敬の門をくぐり第2庭園がある。左手に正義の塔がありそこでは国政を取り仕切る会議が行われていた。また右手には厨房跡の建物が見えてくる。この厨房ではかって数百人もの料理人が4000〜5000人分の食事を作っていたと添乗員のGさんが説明してくれた。 さらに進むと第3庭園に出てくる。右手に宝物館があり右手にハレムが有る。ここで1時間の自由時間、集合はこの場所でと言われる。 トプカプ宮殿の見所はハレムとスルタンの財宝を展示する宝物館が必見らしいが多数の観光客が並んでいて、観ていたらとても1時間の自由時間では無理と判断しさらに前方へ進むと第4庭園に出た。この一番先端からはボスボラス海峡、金角湾、マルマラ海が一望に見え多くの船が航行していた。 家内はとても疲れたといい、集合場所に戻っていく。私はそこからメジディエ・キョシュキュの内部を観る。 それから第4庭園を左手に歩いて行くと宮殿の一番奥には、イズニック・タイルなの外壁が美しく、あずま屋の中では最も優雅で美しいと言われる「バーダーット・キョシュキュ」があった。さらにその横には海を望む黄金屋根のあずま屋があり金角湾が見渡せた。イスラム教のラマダンの時夕食を取った場所とのこと。 さらに集合場所に向かおうと思い歩いて行くと大きな赤いレンガの建物があり警察官がいた。聞くとここはハレムの出口なので入り口に回れと言われる。ハレムの隣りに武器の展示室があり見学。そして無事家内が待っていた場所にたどり着く。 そこではトルコ人の男の人が箒で庭園のゴミや落ち葉を掃いて清掃していた。その箒を見るとどう見ても日本の座敷箒にしか見えなかったので、「それは日本の箒ですか」と訪ねてたところ何とその人は日本のアニメ、「魔女の宅急便」の主人公「キキ」の如くその箒をまたいでにっこり笑顔を見せてくれた。あまりにも突然のことでびっくりするとともにこちらも笑顔で手を振った。まず日本の箒がトルコで活躍していることに驚き、多分機能性がよいのだろうと思った。そして日本のアニメがトルコにまで浸透していることに本当に驚いた。残念ながらそのパフォーマンスの写真はない。 全員集合し、「スルタンアフメッド・ジャミィ(通称ブルー・モスク)」に向かう。 途中「アヤソフィア」の横を通る。歩きながら添乗員のGさんが説明をしてくれた。アヤソフィアの建物はビザンチン帝国時代の360年に建設され15世紀までキリスト教の教会として信仰を集めたが、その後オスマン帝国時代にイスラム教のモスクに改修された。20世紀にトルコが共和制に移行するとアヤソフィアは無宗教の博物館に転身したが2020年大統領の方針で再びモスクと姿を変えたとのこと。 「ブルー・モスク」についても説明があった。「通常モスクには主の権威を示すために複数のミナレット(尖塔)が造られるが、このモスクには6本のミナレットがある。本来皇帝は4基、皇族は2基など決まりがあったが、アファメド1世が「黄金(アルトゥン)の」と命じたのを設計士が「6本(アルトゥ)」と聞き間違えたという逸話も残っている」とのこと。なお女性はモスクに入るときはスカーフをしなくてはならず家内は日本で購入して持ち歩いた。 大きなモスクで中央ドームを4つの副ドームが囲み、さらにその周りを2〜3つの小ドームが囲んでいる。それぞれのドームを支えるアーチには、赤や青を基調とした植物模様のフレスコ画が施されている。金文字で刻まれているのはコーランの1節。また中央のドームを支える柱は直径5m。巨大なドームの重さを支えるために丈夫に作られている。見た目が象の足に例えられている。周りのステンドグラスも260枚ありそこから注ぐ光と美しい照明の光で幻想的な雰囲気を醸し出していた。 ブルー・モスクを出るとすぐ横にローマ時代の競馬場跡があった。そこにはエジプトのナイル河畔の「カルナック神殿」からテオドシウス帝が移したオベリスクがあった。 さらに歩いて地下宮殿に向かう。途中色々の銀行のATMが並んでいた。トラムが割合頻繁に運行していた。 地下宮殿は東ローマ時代に造られた巨大な地下貯水池で幻想的な空間が広がっていた。ここには各地の神殿から運ばれた柱で支えられており各列28本の円柱が12列で合計336本の柱が並んでいた。広さは縦140m、横70mでギリシャ神殿から運ばれてきたという神秘的な模様の柱は模様が涙のようであることから「涙の柱」と呼ばれている。また地下宮殿の最も奥にある2つの柱は土台部分に恐ろしい形相の顔が彫られている。良く見ると髪がうごめくヘビを表していることから、ギリシャ神話の怪女「メデューサ」を形取ったものと言われている。ヘレニズム時代の遺跡を石材と転用した為、そこにあった石像が柱の土台として使われた等と言われている。ただなぜ横向きや反対向きに置かれているかは謎とのこと。
その後バスにてグランドバザールに行く。添乗員のGさんの説明ではバザールの中は中央の道から枝わかれて幾本もの道が続くこと、また4000店舗くらいあるので横道に入るときは良く道順を確認して歩いてくださいとの注意があった。入り口の手前にあるお店屋さんでトイレ休憩をしてバザールの門から中に入る40分程の自由時間となる集合場所は先程のお店の前という、入ってお店をのぞき見してどの様なものがあるか見て歩いた。 ただし今買ったらこれから先ずっとそれをもって旅行しなくてはならないので、土産は最後のカッパドキアで購入するのが良いのかなと思った。門から300メートルくらい来たところで家内が「疲れてもう歩けない」というので集合場所にもどることにした。本当に歩くのがしんどそうなので家内の手を引きながらあるく。手をつないで歩くなんてそれこそ何十年振りかである。尾道では恥ずかしくて出来ないな。 そこからバスにてオリエント急行の終着駅にあるオリエントエクスプレスレストランで夕食となる。 オリエント急行は1883年10月4日にフランス・パリからトルコ・コンスタンチノープル(イスタンブール)まで走った。2009年に運行が修了した。 アガサ・クリスティの小説「オリエント急行殺人事件」に登場するクラシカルな建物は1890年当時のままでステンドグラスがきれいな雰囲気のあるレストランで有った。
壁には当時の写真やら、訪れた有名人の写真などが飾ってあった。 20時過ぎにヒルトンホテルに帰ってきた。22時過ぎに就寝。19時間以上行動したので本当に長い1日であった。 続きはPART 4へ
2024年06月15日
ダウンロードした空港内の地図を見ながら無事集合場所の「バーガー キング」に到着。まだ日本語ガイドは来ていなかった。しばらくしたらトルコ人の男性がやって来て「Oさんですか」尋ねられたが「齊田です」と答えたところ、「もう一つのツアーの方ですね、少し早く着いたのでまだ迎えが来ていません」と流暢な日本語で話してくれた。しばらくすると男女3人組の人が来た。きけば羽田から来たとのこと、漸くして私たちが待っていたお迎えの人が来た。彼は我々をホテルまで送ってくれる運転手さんであった。そうこうするうちに成田からの人達が来て10人となった。 運転手さんに日本円をトルコリラに替えたいと話したところ空港内に5つの銀行が交換所を開いているのでそこで替えてくださいと言われ替えた。レートは1リラ5.22円だった。バスには先ほど羽田からのかたがたも乗り込んでホテルまで行く。途中ホテル到着後のスケージュールが話された。私たち2人はホテルのロビーに9:15集合と言われ、ほかの方々は8:30集合とのこと。 ホテルはヒルトンホテルで部屋は10階にあった。広い綺麗な部屋である。窓のカーテンを開けてみると大きなモスクが丘の上に見えた。ひょっとしてあれがブルーモスクでは無いかと勝手に想像した。 9:15に1階フロアーに集合したら女性の添乗員Gさん来ていた。私たち2人のほかに15人がいてこれから一緒に行動するとのこと。このトルコ旅行には私たちの8日コースのほかに9日、10日コースがあるがこの方たちは私たちよりも1日早く来て前の日から観光が始まっている人、私たちと行動を一緒にした後さらに2日間観光する人など様々らしい。 まずバスにてクルーズ船乗り場に向かう。至る所にモスクがある。金角湾にかかる「ガラタ橋」を徒歩で渡る。この橋は旧市街と新市街を結ぶイスタンブールの交通の要で6世紀に最初の橋が架けられた2層式で、橋の上はトラムが走る珍しい造りで下階はカフェやレストランが並んでいる。橋の上では多くの人が釣り糸を垂れていた。橋の向こう側にはアタチュルク橋が見えた。そしてこのガラタ橋のたもとに、大きなモスクがあった。イエニ・ジャミィである。このモスクは1597年に着工したが完成までに60年以上の歳月がかかった。そのため「新しい(建設者)モスク」という意味の名前が付けられたとか。 エミノニュ桟橋で結構大きなクルーズ船に乗り込む。添乗員のGさんがクルーズのコースについて日本語で説明してくれた。ボスボラス海峡を北上し「7月15日殉教者の橋(以前は第1ボスポラス大橋と呼ばれていたが2015年のクーデター事件後この名前に変更)」をくぐり「第2ボスボラス大橋」でUターンするコースである。後、クルーズが終わっての集合場所を聞いた。 船の中は全く自由で好きなところから風景を見ることができた。ただし何も説明がなく、ただ景色を見ているだけで時折面白そうな建物などがあると写真に収めた。 帰ってきて「るるぶトルコイスタンブール」という観光情報誌を観ながら写した写真の名前が確認した。これが日本の旅行社がするツアーならば添乗員さんが前もって色々の資料を用意してくれて、その都度渡してくれるのでよく理解できたであろう。 私たちが乗船したクルーズ船の横に何かトルコらしい装いをした小さい観光船が泊まっていた。いよいよ出港。金角湾を出てボスボラ海峡に入ると右手がアジサイドで左手がヨーロッパサイドである。船はヨーロッパサイドを航行する。出発点から300m位移動したとき、少し高いところにガラタ塔やモスクが見えた。正にイスラムの世界にやって来た感がある。 またしばらく行くと大型のクルーズ船が停泊していた。船名は「Queen Victoria」である。 第一ボスポラス大橋のたもとに綺麗な建物が見えたが「オルタキョイ・ジャミ」で1854年に建設されたアブドゥル・メジト1世のモスクでオスマン・バロック様式、さらに進んで第2ボスボラス大橋のたもとに城塞が見えてきたが「ルメリ・ヒサール」で1452年にメフメット2世がコンスタンチノープル陥落のために僅か4ヶ月で建設してとのこと。 Uターンをしてアジアサイドに沿って航行。ボスボラス海峡の終点付近アジアサイドのウスキュダルの沖合にクズ塔(乙女の塔)が見えた。ウスキュダの沖合に浮かぶ石造りの塔でさまざまな伝説が残された塔で展望台からの眺めは絶景、ボスボラス海峡とマルマラ海側の入り口に位置し、かつては灯台や税関として使われたと「るるぶ」に説明があった。 無事出発したエミノニュ桟橋に到着しクルーズを終わる。 ところでクルーズ中もそうだが至る所でトルコ国旗を見る。写っている船に比べ丘の上の旗がいかに大きかわかる。また個人の家の窓にも国旗がつり下げられている。日本は正月元旦でもほとんど国旗が掲揚されていない。尾道市でも私が見るところでは市役所と消防署くらいしか常時掲揚されていない。トルコ人と日本人の愛国心の違いなのであろうか? またガラタ橋を歩いて渡りガラタポートに有るレストランに行く。スープとサラダと鯖サンドイッチを食べる。ビールは旅行代金には含まれない。500mlが240トルコリラで大まかに日本円に換算するとおよそ1200円強である。今トルコは急激なインフレになっており、あらゆる物が高くなっているとのこと。そして円は安くなっているため我々観光客にとっては大ピンチである。 昼食後イスタンブール市内観光である。 続きはPART 3へ
2024年06月07日
以前、2022年9月出発のトルコ旅行を申し込んでいたところコロナ第7波のため旅行会社がキャンセルしてしまい行けなくなっていた。この度インターネットで調べたところ「ターキッシュエアライン&トラベル」が募集している「トルコ周遊8日間ツアー」を見つけ参加することにした。 トルコと言ってもあまりなじみがなく中学の音楽授業で軽快な「トルコ行進曲」を聞いたのが初めてトルコを知ったのでは無いかと思う。 その後、高校の歴史などでオスマントルコのことを習ったり、日露戦争で日本がロシアのあのバルチック艦隊に勝利したことでトルコ人が海軍大将「東郷平八郎」の名前から子供の名前に「トウゴウ」と付けたり、通りの名に「東郷通り」をつけていることを聞いたことがあった。 そして2015年日本・トルコ国交樹立125周年を記念して日本・トルコ合作映画「海難1890」が作られ、2015年12月に封切られた。それに先立ち、トルコを訪れていた当時の安部首相とエルドアン大統領が11月、一緒に映画を鑑賞したニュースが流れていた。 この映画は私も封切られるとすぐに観に行き、私のブログ(平成27年12月6日)でも紹介した。一部ブログから転用すると 『日本よりおよそ9000kmも離れた、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる1つ の国、トルコ共和国。かつてオスマン帝国として歴史に名を刻んできたその国と日本は、長きに渡り交流を深めてきた。そして2015年、日本トルコ友好 125周年を迎える。遥か海を越えた両国の友好には、歴史の裏に隠された2つの知られざる物語があった―。 1890年9月、オスマン帝国最初の親善訪日使節団を載せた軍艦「エルトゥールル号」は、その帰路の途中、和歌山県串本町沖で台風のため海難事故を起こし座礁、大破。乗組員618人が暴風雨の吹き荒れる大海原に投げ出され、500名以上の犠牲者を出してしまう。しかし、この大惨事の中、地元住民による献身的な救助 活動が行われた。言葉の通じない中、避難した小学校では村中の医師が集まり応急手当を行い、台風の影響で残りわずかな蓄えにもかかわらず、食糧や衣類を提供。そのおかげで69名の命が救われ、無事トルコへ帰還する事が出来たのだ。この出来事によりこの地で結ばれた絆は、トルコの人々の心に深く刻まれていった。この軍艦「エルトゥールル号」の話は聞くところによるとトルコの小学校の教科書に載って長い間語り継がれて来たとのこと。 そして、時は流れ1985年、イラン・イラク戦争勃発。サダム・フセインのイラン上空航空機に対する無差別攻撃宣言によって緊張が高まった。この宣言後、 在イランの自国民救出の為、各国は救援機を飛ばし次々とイランを脱出。しかし、日本政府は救援の為、自衛隊機を出すことが自衛隊の海外派兵となり憲法違反と判断し救助要請に応えなかった。またJALも乗務員の安全が確保できないと判断し救援機を出さなかった。テヘランに残された日本人は215人。メヘラバード国際空港で誰も助けの来ない危機的状況に陥り絶望の淵に立たされた。この状況を打開すべく、日本大使館はトルコへ日本人救出を依頼。トルコ大統領オザル氏は、それを快く承諾。まだ500人近くのトルコ人がテヘランに残っていたにも関わらず、日本人に優先的に飛行機の席を 譲ったのだった。』 このことで私はトルコに大変興味を持った。 それともう一つ高校の世界史でトロイの遺跡をドイツ人のハインリヒ・シューリマンがギリシャの詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」にでてくる伝説上の都市と信じられていたトロイを、これが実在したと信じ続け私財を投げうってついに発掘した話を習った時、是非トロイを訪れてみたいと思っていた。 恥ずかしながらまさかトロイがトルコ共和国にあるとは露知らず。数年前に知ってトルコ旅行にトロイが含まれているツアーを選択した。 ただし私のこのツアーはトルコ航空の旅行会社が企画したため、集合は現地イスタンブール空港出口のすぐ右側に有る「バーガー・キング」の前とのこと。日本のオフィスに電話したら私たちのプランで関西空港から出発される方は私たち夫婦2人だけとのこと。少々心配であったがイスタンブール空港に着いてからの道巡を示した地図などがインターネットのマイページに掲載され、また飛行機の切符もEチケットで掲載されており印刷をして持って出かけた。 5月19日新尾道駅を14:21の「こだま」で出発、福山で「のぞみ32号」に乗り換え、新大阪で関空特急「はるか」に乗り換え無事関空についた。少し早かったため1時間ほど待つ。 当日の関西空港国際便出発ロビーはものすごい人で、ほとんどが外国人。日本語はほとんど聞こえず韓国語や中国語などが飛び交っていた。円安の関係で旅行客が増加しているとニュースなどで聞いていたが、ここまですごいとは思わなかった。1時間ほど待ったところでトルコ航空のカウンターが開きチェックインした。スターアライアンス加盟航空のためANAのラウンジで少し時間を過ごす。 21時頃搭乗口前に集合したところ放送が流れ家内が搭乗口に呼び出された。家内が搭乗口まで行くと家内の座席のモニターは画像がでるが音声が故障でない。そのため搭乗前にその事が家内に通知され、それに文句を言わない様に誓約書にサインをさせられた。それに対して粗品の一つも無い、とんでもない。 21:45イスタンブールに向けて離陸。1時間ほどで食事が出たが、言葉はあまり通じず英語のメニューを観ながら私は寿司を頼む。渡辺憲が出演している映画「GODZILLA(ゴジラ)」を観て寝た。 トルコ時間午前3時(日本時間朝9時)前に朝食として機内食が提供された。その時モニターで飛行ルートを観ていったら丁度黒海の南側を飛行しており、地図には手前に2014年冬のオリンピックが行われたロシアのSochi(ソチ)、その上方にはウクライナの首都Kyiv(キーウ)が書かれていた。しばらくして黒海の北側にYalta(ヤルタ)が表示されてた(写真では右側)。Yaltaはクリミヤ半島に有りこの飛行機の現在地から5〜600qほどのところ(尾道と静岡間)である。正に今この時間もロシアとウクライナが戦争をしている。今自分たちは戦場横の安心な場所にいて朝食を食べていることに有難さを感じた。 さらにこのヤルタでは1945年2月にイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長による会議が行われ、ソ連対日参戦と第二次世界大戦の戦後処理についてヤルタ協定を結んだ場所で、現在の日本の形が作られる出発地点である。 現地時間4時半(日本時間朝10時半)前頃、無事イスタンブール空港に到着。少し予定より早く着いたようだ。正に「飛んでイスタンブール」であった。 続きはPART 2へ
2024年06月01日