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09/05 懐かしき歌
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尾北16回生「もう一度喜寿を祝う会」

 9月16日に「もう一度喜寿を祝う会」が尾道のRyokan尾道西山(旧 西山別館)で開催された。昨年8月16日に34名が尾道市役所屋上に集まり「喜寿の会」が開催されたが、コロナ禍もあり食事会もなく座ることなく立ったままでの開催で有ったため、なんとなく顔合わせをしただけの感じがしていたので有ろう。11人の発起人が集まり今回企画運営をしてくれた。64名(男35名、女29名)の16回生が集まった。このようなお祝い事は数え年でするらしいのだが、昨年の8月では私は75歳になって4ヶ月しか経過して無くて、中々ピント来なかった感がしていた。
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 尾北16回生は昭和60年に開かれた同窓会で名前を16(いちろく)会と名付け、毎年お盆の8月16日に集まることにしていたがいつの間にやらうやむやとなっていたが昨年無事に復活していた。今回は1ヶ月遅れでは有ったが16日に開催できた。地元の同級生とは毎年6月に開催される北高「槙ヶ峰同窓会」で顔を合わせている。平成27年の「槙ヶ峰同窓会」では卒後50年の「ホームカミング」で招待を受け104名が集まったがその時以来の人数で有る。
 16時集合で17時から会が始まる。幹事の一人が進行役をつとめ、最初に物故者に黙祷を捧げる。配布された名簿には男性47名、女性12名の名が記されていた。当時の尾道北高校は普通科と家庭科があり、我々16回生は卒業時、普通科は男性181名、女性121名で家庭科は全員が女性で52名。男女別でいけば男性181名、女性173名であるがはるかに男性の死亡者数が多い。調査しきれなかった人たちもいると思うが、男子が4倍近く多いのに驚く。これも平均寿命が関係しているのか?
 次にA君が祝太鼓として氷川きよしの「きよしのズンドコ節」を叩いて会を盛り上げた。
  IMG_4362-3.jpg   IMG_4365-3.jpg
その後同窓会会長のK君の挨拶があり、白ワインで乾杯となり宴が始まる。
席は前もってくじ引きでテーブルが決まっていた。色々話を聞いていると「この年齢になると次の機会に参加できるかどうかわからないので最後かも知れないとおもい参加した」という人たちが多かった。
 県外からの参加者紹介もあり遠くは北海道からの参加者もいた。
卒業以来会ってなかった長崎からのF(旧姓T)君と話が出来たことは良かった。またここ4年ほど会っていなかった明石から参加したY君と話すと、この6月に奥様を亡くされたとか。日常生活や食事などについて色々と様子を聞いてしまう。息子さんが近くに住んでおられる様だが、ほとんどは自分でスーパーに買い物に行き自炊しているとか。  
最近家内との会話にも「お父さん私が先に行ったら食事どうするの?少し料理をしてみたらと誘われる」が聞き流していた。しかし同級生のことを聞くと少し考えなくてはと思う。
 最初お顔を見ても名前が出てこない人も多くいたが、だんだん面影が出てきたり、名札を見て思い出したりとあっという間の2時間で有った。
 最後に幹事の方から昨年の喜寿の会にはご出席いただいた恩師のK先生の近況のお手紙が披露された。2通あり6月の時点では参加することを楽しみにしているとのことで合ったが、8月のお手紙では、今年は89歳になり歩くのも少し自信が無く酷暑故に欠席するとのことで合った。
K先生は私が2年生の時赴任されてきたが、おそらく29歳でなかったかと思う。第一印象がすごかった。普通先生は授業の始まりのベルが鳴って職員室を出られるのだがこのK先生はベルが鳴る前に教室の入り口の廊下に立っていてベルが鳴ると同時に教室に入ってこられてすぐ授業開始された。驚きである。それがずっと続いていたと思う。
 最後に校歌斉唱で宴はお開きになった。タクシーが中々来ないので歩いて家まで帰る。65分かかった。
 翌朝いつものようにウォーキングをしていたらK先生のお住まいのマンションの前でぱったりお会いする。ちょうどゴミ出しに出てきておられた。昨日のことをご報告した。とても元気そうで足取りもしっかりされていて良かった。
つぎは80歳「傘寿」の会が有るのかな?

2023年09月18日

懐かしき歌

 先日、頭から布をかぶった外国籍の女性が来院された。服装でイスラム圏からの方だと思った。どこの国から来たのか聞けばインドネシアとのこと。3年以上介護施設で働いているとのこと。日本語もすごく達者である。
 インドネシアと聞いたとたん「ノーナマニサパ ヤンプーニャン ラササーヤ  サーヤゲン」とい言う言葉が急に頭に浮かんだ。
多分インドネシア語だと思ったのでこの言葉はインドネシア語ですか?と質問してみた。彼女はすごく驚いたようで「そうです」と答えてくれた。矢継ぎ早にどうして知っているのですかと逆に質問された。
 昔、昭和40年(58年前)に広大に入学したとき「広大ホームアジア」という同好会に入って活動をしていた。この同好会は当時日本政府が大東亜戦争で日本が負け、その折アジア各国に迷惑を掛けたという趣旨で日本の各地の大学へ国費留学生を招いていた。当時広島大学にはインドネシア、台湾、パキスタン、からの留学生がいた。彼らが日本で生活することや日本語の習得、勉強などのお手伝いをしたり、また色いろと意見をのべあいながら親睦を高め、日本を理解してもらうような活動をしていた。
休日にはハイキングに出かけたり、夏休みにはキャンプに行ったりクリスマス会などもあってより親睦を高めた。その時いろんな歌を歌った。その中で歌詞に「ノーナマニサパ ヤンプーニャン ノーナマニサパ ヤンプーニャン ラササーヤ  サーヤゲン」というのがあり、インドネシアからの留学生と一緒に歌った光景を思い出した。しかし歌の題は忘れていた。この歌詞の意味を逆に彼女に聞いてみたが難しいと言われた。
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 次回彼女が来院されるまでに少し知識を入れようとインターネットで検索したら「かわいあの娘(こ)は誰のもの」と言う歌でボニージャックス他、何人かが歌っていることがわかった。流行歌だったとは全く知らずラジオで聴いたこともなかった。
それで歌詞をコピーしてスマホで歌が聴けるようにして来院を待った。来院されたとき歌の歌詞を渡しスマホで聴いてもらった。この曲、元はインドネシアの民謡のようなものらしい。日本でインドネシアの歌が聴けるとは思っていなかったようでとても喜ばれた。
その後、私も再々この歌を口ずさんでいる自分に気がつく。
 同じ頃、広大工学部応用化学科で一級先輩のTさんからメールが届く。終活するつもりで段ボール箱をあけたらいろんな物が出てきたがその中にガリ版刷りの「春歌集」が出てきたといつて1ページ目の写真を添付してきた。これまた懐かしい物である。今のZ世代の人たちに「春歌」と行っても判らないであろうが私たちの世代では一杯飲んだらよく「春歌」を歌ったものである。今の若い世代では、「春をひさぐ」なんて言葉は死語に近いであろう、「売春」と言う言葉は理解できるようである。
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 それにしても添付写真の最初の歌は「めんこい仔馬」のメロディーで歌うのだが
『ゆうべとうちゃんと寝たときに、 へんなところに芋がある、 とうちゃんこの芋なんの芋  オーラ  坊やよく聞けこの芋は、 坊や作った種芋さ。』・・・・
私も何回も歌った懐かしい歌である。
 いろんな歌が替え歌となっていて、「性」や「セックス」を想起させるものがほとんどで有った様に思う。それにしても替え歌の歌詞を作詞した人はごく普通の人であろうが、作詞家としての才能があったのでは無いか? あるいは詩人では無いのかと想像してしまう。私にとっては古き良き時代の日本の文化かなと思う。今の若い世代はいやらしいと毛嫌いするのであろうが。

2023年09月05日

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