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カレンダーを見ると10月26日は原子力の日と書いてあるが、この同じ日が「柿の日」だとは知らなかった。由来は明治28年10月26日に正岡子規が奈良を旅したおり、有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句読んだ日だとされている。そのせいか毎年「奈良の柿」PRレディーが総理大臣を表敬訪問している。今年も10月15日に表敬訪問があったことが首相官邸メールマガジンに載っていた。(写真はメールマガジンより) 私は35年前の11月に現在地に開業した。来院患者は順調に伸びていったが、翌年の7月後半から患者数が減少してきた。8月は暑いので少し涼しくなるまで休むと言われる患者様が多くいらっしゃった。しかし9月の後半になっても回復しない、それどころかさらに落ち込んできた。私の開業した地域は農村地帯で周りにたくさんの田んぼがある。専業農家は少なく大半は兼業農家である。そのため一家のあるじ達は会社から帰るや田んぼに直行し、稲刈り、ハゼ作り、ハゼ掛け、さらに脱穀と大忙しである。とても歯医者に来る時間はないのだと思った。そんなことが毎年繰り返されてきたが、あるとき「柿が赤くなると医者が青くなる」ということわざを知る。当時その本当の意味は知らなかった。まさに私の状況を表した諺だと思って柿が赤くなる時期は稲刈りと重なりどんなにあがいても暇になるのだと悟っていた。 ところがどっこい恥ずかしいことだがその諺の意味はまるで違っていた。 インターネットで検索したところ『「柿が赤くなると医者が青くなる」ということわざは、柿が赤くなる秋は天候がよいので、体調を崩す人は少なく、医者は商売にならずに青ざめる、という意味で、おそらく、柿の健康効果も手伝って生まれたことわざでしょう。』とあった。また柿の成分を見ると『ビタミンCやビタミンAがミカンの2倍あり柿1個食べると、ビタミンCの1日の摂取基準量を満たすことができます。ビタミンCは風邪の予防や免疫力アップ、美肌の育成・維持などに重要な働きをする栄養素です。さらにまた、血圧を下げる働きのあるカリウムや、コレステロールを下げる働きのある食物繊維も豊富に含まれている。そのほか柿に含まれているタンニンは、二日酔いの予防や緩和にも役立ちます。そして、タンニンには抗酸化作用もあるので、がんなどの抑制効果も期待できます。まさに「医者が青くなる」ほど栄養たっぷりの果物です。』と書いてあり、まさに目からうろこであった。 しかし長い間自分なりの解釈で納得出来ていたのは幸いであった。 ところで私の家庭菜園の一角に1本の「次郎柿」の木がある。20数年前に家内が苗木を買ってきて植えたものである。「桃栗3年柿8年」と言われるが植えた苗木は接ぎ木がしてあり、2年目には一個だけ実がなった。初めてのたった一つの柿を当時健在だった広島の両親のところへ持って行ったことが懐かしく感じられる。 その後、年を経るに従い少しずつ収穫出来る実の数が増えてきた。今年はかなり多く、コンテナ3個分くらいはあり数えてはないが300個くらいは出来たのではないだろか。尾道や沖縄の孫たちに送ったり、従業員やご近所にお裾分けをした。
2020年10月22日
先日タイにあるドゥアン・プラティープ財団から私が里親になって奨学支援をしているスピー・タキアン君の近況や手紙・成績表などがメールで送られてきた。それによるとこの度、高校を卒業しカンチャナブリ・ラーチャパット大学の1年生になったとのこと。手紙には大学に入るに当たっての彼の意気込みが書かれていた。もっともタイ語のため読むことは出来ないが、財団が日本語に翻訳したものを添付していてくれた。そこには「僕は卒業した時に職業選択がきちんとできるように語学と情報を学びたいと考えています。僕は新しい大学生活に入ることに胸躍らせています。僕は難しくとも楽しんで挑戦し、根気よく勉強して卒業できるようにできる限り頑張ることをお誓いします。」とあった。私は胸がじんと熱くなった。 というのも彼の生い立ちが尋常なもので無いのである。
ところでドゥアン・プラティープ財団はバンコクのスラム街クロントイ地区にある。1978年にこのスラム出身のプラティープ・ウンソンタム・秦女史が、自分の経験からスラムに住む子供たちが悲惨な状況下にあり何とか助け出したいとして活動を開始された。現在の日本社会では考えられないことであるが、当時からスラムの子供たちは劣悪な環境下で養育され、やがて麻薬を常用するなどのさまざまな非行問題に引きずりこまれたり、また正規の教育を受ける機会も少ないために、仕事に就くのに十分な学歴が得られず、就職難になりがちであった。 プラティープ財団のパンフレットによれば、とりわけタイの貧困家庭では、きつい労働と日々の生活費の捻出に精一杯で精神的なゆとりがなく、そのために夫婦が仲たがいしたり、子供の養育が至らなくなるなどの問題が生じています。生活の問題から来るストレスで子供を虐待したり、また違法であっても生活のために我が子を働かせるという状況も出てきます。社会全体に影響を及ぼしている麻薬は、急激な勢いで蔓延しており、若者たちはその犠牲となって始めて、わが身の破滅を知るという状況が起きている。こうした青年たちを立ち直らせ、社会的に自立できるよう教育の機会を提供していくために、プラティープ財団は1986年にチュンポーン県に少年のために、ニューライフプロジェクト「生き直しの学校」をスタートしました。一方少女たちの問題は少年以上に深刻で、近所の人や家族から強姦されたり、虐待されたりといった悲惨な状況下にあっている少女が多く、こうした状況を見かねて、少年たちの施設に続いて、1996年にカンチャナブリ県(映画 戦場に架ける橋の舞台になった場所)に「少女のための生き直しの学校」をスタートした。 ここでの少女たちの1日は、学校に行く子供たちの世話、野菜栽培、養豚、養鶏、調理や裁縫などの職業訓練、食事の準備などである。 この施設のこと、ウンソンタム女史の事を20年前の2000年に今は亡き石川洋先生(托鉢者、元、京都一燈園)にお聞きし、子供たちを継続的に奨学支援することにし、毎年いくばくかの奨学金を送っている。 私が最初支援したB子は当時7歳の女の子であった。財団から送られてきたプロフィールによれば父親は麻薬売買と所持の罪で服役中、母親は麻薬常習者であった。施設に収容されたときは仔細な事で泣くなどなかなかなじめない子であったとの事。毎年学校の成績表や、短い手紙(日本人ボランティアが翻訳)、生活状況などが送られてきて、特に絵を描くことが得意のようであった。私は、いつの日か、彼女がタイ国の未来を背負って活躍することを楽しみにしていた。 しかし2008年6月17日にプラティプ財団からB子が親戚に引き取られ退所したと連絡が来た。両親は麻薬中毒で父親は服役中である。おそらく15歳になった彼女を働かせてお金を得ようとする親戚の魂胆であろう。まともな所で働くのなら良いが、売春宿などで働かされたら、8年間も里親として支援してきた甲斐が無いというものである。財団のほうも随分とそれを心配しているようである。今となっては27歳になったB子が幸せに生きていてくれることを願うだけである。 その後、私の里親援助は2008年7月から戸籍証明も無く母親の死亡書のみしか持たないスピー・タキアン君7歳に切り替わった。財団から送られてきたプロフィールによれば両親と物乞いをしながら住む場所も一定しない生活をしていた。父親はアルコール中毒で話すこともおぼつかない。母親が死んだ時、たまたま「生き直しの学校」に保護された。毎年送られてくる財団の報告書を見ながら彼が元気にしていることに安堵していた。小学4年生からは自筆の手紙が添えられていた。最もそれ自体は読めないので財団の翻訳を読んでいた。彼からの手紙には前向きな気持ちが綴られていた。「生き直しの学校」で勉学と野菜栽培・養豚・養鶏・アブラヤシの収穫作業などの農業実習、スポーツ、コンピューター学習、学校外教育等をしながら小学校1年から今日まで甘えることなく頑張ったことが大学進学を決意しついに大学に合格したのだと思うと胸が熱くなる。 ちなみにタイの大学進学率は49.3%(2016年)日本の大学進学率は54.6%(2019年)であるが、しかしプラティープ財団「生き直しの学校」から大学へ進学する生徒はほんの僅かのようである。それだけ彼が信念を持って頑張ってきた証と考える。だからこそ彼が将来も頑張って国を引っ張って行きタイ国をより豊かな国にしてもらいた。日本の大学生にも貧困の中、頑張っている学生もいると思うが、TV等で見受ける大半の学生は真剣さが足らない気がする。 日本にも児童養護施設があり、子供達を保護しているがプラティープ財団の方が子供達の置かれている状況をより深刻にとらえ、そのために自立しやすい実践プログラムを組んでいる感じがする。 少なくとも彼が大学を卒業するまではもう少し里親を続けさせてもらおうと思っている。
2020年10月08日