AM9:00〜PM0:45PM2:00〜PM6:20
木・日・祝日
先日、7月に出産退職をしたM子さんが生後1カ月の息子のA君を連れて「さいだ歯科医院」にお披露目に来てくれた。生まれた時が2370グラムぐらいだったらしく1カ月で漸く3040グラムになったとか。 早速、私を含めてスタッフ皆が赤ちゃんを抱かせてもらう。あまりにも小さいのでスタッフたちも恐る恐る抱っこしながら赤ん坊の可愛さを口々に話している。 ところでM子さん少しお疲れ気味だったので訳を聞くと「3時間ごとの授乳のために十分に寝させてもらえないのだ」とか? 「皆、親御さんは同じ思いをしながら子育てをしていたのだ。お母さんに感謝しなくてはいけないよ」と話しながら、「それで子供は嫌なのか」と意地悪な質問をしてみた。すると「とんでもない宝物だ」という。そうだろなと思いながら、毎月私が読んでいる月刊「致知」11月号の記事を思い出した。 それは熊本市にある「慈恵病院理事長兼院長の蓮田太二氏」の「子供たちの命と未来を守れ」という記事であった。 蓮田氏は8年前に日本で初めての試みとなった「こうのとりのゆりかご」(通称・赤ちゃんポスト)の取組を始められた。これまで預けられた子供の数は120人に上るそうです。 蓮田氏の取組の原点はある時から子供の虐待を報じるニュースがよく目につくようになり、命を救えなかった報道を何度も目にし、「なぜ親は子を殺したのか」という強い憤りを感じるようになっていったのだそうです。 始めるにあたりドイツに視察に行ったりされたが、日本では前例がないとか、法律専門家の方からは、匿名で赤ちゃんを預かるのは捨てる事を助ける「遺棄幇助罪」に当たる可能性が有るという意見等が出たとの事。中々前に進まなかったが、その間に熊本で立て続けに3人の赤ちゃんが遺棄され、その内2人が亡くなるという痛ましい事件が起こり決意を固め障害を乗り越えついに平成19年5月に日本初となる「こうのとりのゆりかご」の運用が始まったと記事に書いてあった。 M子さんの場合、実家のご両親も一緒に子育てを手伝ってくれているようで幸せ者だなと思いながら、元気で頑張るようにエールを送り、息子のA君がすくすく育つ様にと願う。また働く気になったら我が職場に復帰してくる様にも話した。
2015年10月31日
3日目。今日も良い天気で暑くなりそうな予感のもと8:30にホテルを出発。ここ霧島は道路脇などいたるところで湯けむりが登るのを見ながら仙厳園に向かう。海岸沿いに桜島を見ながらマイクロバスは軽快に走る。途中運転手さんが、「今日は噴煙が上がる様に私がスイッチを押します」と冗談話しをしながら仙厳園に着いた。 まず隣の「尚古集成館」を見学する。幕末時代、藩主島津斉彬がこの地に東洋最大の工場群「集成館」を築き、そこで製鉄、大砲、造船、紡績、薩摩切子等のガラス、薩摩焼の研究・製造を行っていた。 これらの遺品等が展示されていてどれを見ても感心するばかりで薩摩藩の先見性に驚く。ところでこの「尚古集成館」の建物は29代忠義により機械工場として建設されたものだが、今年「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されたものである。その後、薩摩切子工場を見学しギャラリーショップで薩摩切子のすばらしい細工を見た。 仙厳園は通称磯公園と呼ばれており、島津家の別邸として築造された。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な庭園である。やはり53年前に修学旅行で訪れたところである。当時家内も同じクラスメートで有ったが、クラス写真を撮った場所は記憶していなかった。 園内の「展望レストラン松風軒」で昼食をとっていたが、ふと窓越しに桜島を見ると噴煙が上がっており、急いで写真に収める。ビックリ、運転手さんがスイッチを押したのかな?後で聞いたら笑いながら「そうだ」と言っていた。本当にびっくりである。 その後鹿児島市内に行き西南戦争時の弾痕が残る鶴丸城の石垣を見ながら城山に登る。途中西郷隆盛が潜んでいた洞窟や彼の終焉の地をバスの中から見る。城山から見た桜島はすでに噴煙はおさまっていた。ここ城山ではセミの声がうるさく「つくつくぼうし、つくつくぼうし」と大合唱でまだまだ夏の様である。
その後、西郷隆盛や大久保利通の生誕地「鍛冶屋町」にある「維新ふるさと館」に行き幕末から明治の時代への展示物や、映像を見たりした。特に「維新体感ホール」で上映される偉人たちの等身大ロボットやマルチスクリーンを使ったドラマは面白かった。 ところで今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は長州を舞台にした幕末から明治へのドラマであるが維新を成し遂げた薩摩・長州の事を少し知りえた事は何かの縁かもしれない。ただスケジュールの関係で見学時間が少なく消化不良の感はあった。 全ての日程を終え鹿児島発16:07の「さくら564号」にて帰途につく。新尾道駅に無事19:51に到着。3日間良い天候に恵まれ、全員怪我・病気も無く帰れたことに安堵した。
2015年10月13日
2日目は朝8:30にホテル出発。今日も天候は晴れ、開聞岳を見ながら本州最南端長崎鼻灯台へ行く。実は鹿児島は53年前、高校2年生の修学旅行(1967年11月6日〜11日)で訪れて以来である。但し、開聞岳・長崎鼻は初めてである。また女性従業員は誰も鹿児島に来たことが無いので楽しく旅を満喫しているようだ。 さすが薩摩富士と呼ばれるだけあって開聞岳の姿は実に綺麗である。その後、大ウナギや謎の生物「イッシー」が棲むと言われる池田湖を見ながら鹿児島港に向かう。途中「かるかん・さつま揚げ工場」見学をした。まるで修学旅行で、従業員はお土産を買い求めていた。 鹿児島港からフェリーで桜島に渡る。7月終わりに旅行を計画した後、桜島が9月8日には爆発し、また28日にも噴火しどうなるかと思ったが、今日は全く静かで噴煙も見えない。有村溶岩展望所から中岳を見る。53年前に来た時は噴煙が有ったのだが残念。また当時はごつごつした溶岩台地だったが今は松が自生しており荒々しさが無い。展望所や遊歩道なども整備され時代の流れを感じた。 その後大正3年の大爆発で大隅半島と陸続きになった牛根に行く。ここからは昭和火口からの噴煙がわずかに見られた。海岸線を桜島を左手に観ながら一路霧島神宮へ向かう。 この霧島神宮も修学旅行で来たがあまり記憶が無い。霧島神宮は6世紀の創建で天照大神の孫のニニギノミコトが祭られている。ニニギノミコトは天照大神から「三種の神器」を授かり高千穂の峰に天孫降臨された神様でその曾孫が神武天皇と言われている。まさに皇室の御先祖様を祀る由緒正しき神宮なのだろう。それにしても古くからある伊勢神宮・出雲大社・霧島神宮などはその佇まいが荘厳で何かしら霊的な感じがする。従業員達と全員で「おみくじ」を引いてみた。全員が吉や末吉で凶が無く旅行が無事に終えられると思った。 それにしても私には「おみくじ」で思い出されることが有る。昔、家内と結婚する前に安芸の宮島で「おみくじ」を引いたら凶が出て引き直したがまたも凶、さらに引き直しても凶が出たことが有った。3回も凶が出たということは宮島の神様が女神様なので私達の結婚にやきもちを妬かれたのだと今でも思っている。 参拝の後、霧島硫黄谷温泉にある霧島ホテルに宿泊する。この硫黄谷温泉には、幕末の時代、寺田屋事件で負傷した坂本竜馬がおりょうと共に霧島へ療養の旅に来たが、これが日本で最初の新婚旅行だと言われている。このホテル〈当時は宿屋〉もゆかりの宿屋らしい。お風呂での写真撮影は出来ないので、ロビーにあったお風呂の写真を撮影。泉質は硫黄なので少し乳白色で硫黄のにおいがする。深い所では私の胸まであり立位で風呂に入れて珍しく、しかも広くてプールの様だったので少し平泳ぎをしてみた。 今日も無事に旅が出来楽しい一日であった。
2015年10月12日
先日2泊3日で4年振りに院内旅行に出かけた。3日間も休診したので患者さんには大変ご迷惑をお掛けしたなと思う。でも経営者としては従業員の福利厚生も考えなくてはならず痛しかゆしの所が有る。これまで4〜5年ごとに院内旅行をしてきた。海外のパック旅行が多かったが、最近の海外旅行はテロ等で危険なため今回、久しぶりに国内旅行としたが、費用はかなり嵩んだ。 新尾道から福山経由で鹿児島中央駅まで「さくら」に乗っていく。新尾道に集合した時、従業員の1人が切符を忘れた事に気が付く。とても取りに帰る時間は無く、駅員と交渉し、再度新しく切符を購入、帰ってきてから手数料を払って忘れた切符を返金してもらうこととし、ギリギリ出発に間に合う。全員揃って行けたので本当に良かった。 最初は「知覧特攻平和会館」の見学である。前々から一度行って見たかった所だ。マイクロバスの運転手さんがガイド役を引き受けてくれて途中色々説明をしてくれる。記念館の前のまっすぐな道路が滑走路の跡だとか、当時の給水塔だとか案内してくれた。またこのところの天候のせいか平和会館前の桜並木にさくらが何輪か咲いていて何か私を迎えてくれている気がした。 平和会館の中の見学では、色々のものが展示されていたが、やはり特攻に出かけた若者達の遺書に胸を打たれる。本当にお国のためにという高い志、残る家族の幸せを願うもの、幼い娘や息子に宛てたもの等どれを読んでも胸が熱くなる。 以前読んだ本の中に、ある戦争未亡人の和歌 『この国のかくも卑しくなりたれば捧し人のただに惜しまる』がある。 まさに今の日本を見れば、毎日の様に報道される殺人、子供たちのいじめによる自殺、日本国を貶める様な発言をする、知識人と称する人や、マスコミなどが目に余り、本当に荒んだ国になりさがり、彼ら特攻に散った人々の思いが踏みにじられ、彼らが犬死をした様な気がする。改めて彼らが捧げた命の上に平和と豊かな現在が有る事の有難さや大切さがしみじみと伝わって来た。 小学生の一団が平和学習に訪れていたが、係員の説明に熱心に耳を傾けていたのが印象的であった。もう少しゆっくり見学したかったがスケジュールも有り、いつかまた来ようと思いながら後にした。 その後、特攻の母として知られる「鳥濱トメ」さんが経営していた「富屋食堂」(復元された)の前を通り「知覧武家屋敷庭園」を見学。その後、指宿温泉「白水館」に到着。 ここでは「砂むし」を体験。熱い砂を全身に掛けて貰ったが、砂が重いのと、熱さで15分が限度。砂がこんなにも重いとは思わなかった。生き埋めになるとあっと言う間に死ぬであろう。お風呂は色々趣向を凝らした湯船があり、サウナ、ミストサウナ等も有り、一応全部の湯船につかったが、露天風呂が一番気に行った。結局食事前まで2時間風呂場でリラックスし命の洗濯をする。その後食事となるが、お酒を飲むのは3人程度で至って静かな食事会である。食事後もう一度温泉につかって就寝。良い一日であった。
2015年10月11日
今日、二男の所の孫娘の運動会が有り観に行く。まさに秋晴れのいい天気で有った。二男の孫は幼稚園の年中さんで今回が2回目の運動会である。昨年は仕事の関係で観に行けなくて初めてである。沖縄の長男がまだ尾道にいた頃、長男の所の孫の運動会は3回ほど観に行った記憶が有る。 9時開会式で有ったが、5分ほど遅れて到着。会場は松永湾の埋め立て地で初めての場所であった。会場について驚いたのは、私が子供の頃の保育園や小学校の運動会と言えば、トラックの周りに綱を張り、その外側にクラス別に子供達の席と地区ごとに区割りした大人たちの席があり、しかもござを敷いただけのものである。ところが今は子供たちの席にもテントが有り、親たちにも幼稚園が用意したテントは有るが、とても入りきれる面積は無い。そこで多くの人達は自前でテントを用意してその中で観ている。テントの生地にはUVカットの文字すら見える。本当に様変わりであり、日本が豊かになった事を示している。二男も7時半頃来て並んで席を取ったとか。当然テントを設置していた。 かなり大きな幼稚園らしく園児たちは350人位いるらしい。年長・年中・年少・さらにひよこ組もいるようだが、結構長時間立ったまま頑張って並んでいたのには感心した。 開会式の後、体操をしていよいよ競技開始、孫娘はプログラム2番目にかけっこで早々に登場。結果はドン尻では無かったが、あまり足は速くない様である。見ていて手の振り方を練習させれば少し速くなると思った。この辺りに親の目ならぬ爺さん根性が出てくる。 その後一つ置き位に出演の機会が廻って来ていた。お遊戯や、大玉ころがし、組み体操等を観る。孫娘の演技する位置等が判らないので写真を撮るにしても中々良い位置に行けないし、観客も多くて大変。孫娘が競技に出ないときは、二男が設営したテントに戻って家内と息子たちの運動会の事を思い出しながら話に花を咲かす。その中で二人とも一番思い出深いのは、北海道白糠町の幼稚園での初めての運動会である。6月に行われたのだが、霧が深くて寒さに震えながら観戦をした。白糠や釧路はその時期海霧がひどく、尾道あたりに住んでいると信じられないかもしれないが、霧の粒も大きく霧雨程度になっている。最近家内との会話に、子供達を育てて来た事を懐かしむ会話が多くなった気がする。それだけ年齢を重ねたということかもしれない。 運動会の観戦は午前中だけにして孫娘に午後も頑張る様に話して引き揚げた。
2015年10月04日