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先日26日に、尾道市歯科医師会と尾三地域歯科衛生士会との合同研修会が有った。毎年行われている研修会だが、今年は8月10日に予定していたところ台風11号接近の為延期されていた。今回は福岡歯科衛生士専門学校の山本未陶先生をお招きして、「ヘルスプロモーション型の定期検診を始めましょう・・・すぐ使える歯科保健指導のコツ」と題して御講演を頂いた。 歯科の2大疾患である虫歯と歯周炎はある意味『生活習慣病』と言われている。そしてそれを防ぐには予防が重要でいかに患者さんにその重要性を理解して頂き、さらに我々がいかに支援をしていくかが大事である。 とかく我々歯科医師や歯科衛生士が患者様を指導していく場合、上から目線で「すずめの学校」よろしく「鞭を振り振りちいぱっぱ、まだまだいけないちいぱっぱ」的な指導になる。そうでは無くて、「めだかの学校」のように「誰が生徒か先生か」判らないぐらいに患者様が自立できるように支援をしていくことが大切である。 たまたま講演会が行われた日の日本経済新聞朝刊に『歯周病、ケア不足 6カ国調査で日本人・・・「時間かけぬ」最多3割』という記事が載っていた。この記事によると日本・米国・英国・ドイツ・オーストラリア・スエーデンで成人を対象に調査をしたところ、日本では歯周病を「知っている」、「聞いた事が有る気がする」と回答した人は98%と第1位で認知度は高い。一方で「歯のケアに時間やお金をかけたくない」とした割合も日本が30%で最多。2番手だった米国・オーストラリアの各22%とは差が開いた。 この原因は何なのか考えると、日本の歯科治療費が世界でも格段に安く、虫歯になったり痛くなれば歯医者に行けば良い思う人が多いのではないだろうか。一方米国などは歯科治療費が高く虫歯になり歯科にかかるとかなりの経済的負担を強いられる。そのために予防やケアに時間とお金を掛けるのだと思われる。 痛くなれば歯医者に行くと言う感覚と、痛くならないように歯医者に行くと言う感覚のずれを正していかないと中々定期検診やケアが進んでいかないだろう。 かって私の医院で患者様に歯みがき指導をするために来ていただいたところ、「仕事を切り上げて来たのに治療をしないで歯みがきなんかとんでもない」とお叱りを受けたことが有る。 結構その言葉が私にはトラウマになっているが、時代は変わってきている。 今や80歳で20本以上の歯を持っている人の割合が40%になってきている。 メンテナンスを含めて患者様の口腔ケアに力を注ぎ患者様が健康で質の高い生活が出来る様に少しでもお役に立ちたいと思う。
2014年10月31日
去る19日に天候に恵まれ第31回広島県歯科医師会健康ソフトボール大会が尾道市御調町のソフトボールグランドで開催された。私は選手として出場はしなかったが、尾歯会の会長として朝から応援に出かけた。ところでこの球場は広島アジア大会の為に作られたもので、全国でも3本の指に入る立派なグランドである。そのため全国大会などが頻繁に開催されている。 以前は各地区持ち回りで行われていた。海田の自衛隊グランド、佐伯運動公園、三次の江の川河川敷等で行われた事もあったがグランドの整備不良で怪我人などが出やすく、最近は全てこの御調町のグラウンドで行われるようになった。広島市のチームなどは朝6時集合でバスを連ねてやってくるが、我々は近いためゆっくり出かけることができ助かる。 ところで県歯科医師会の大会はA・B・Cの三クラス別で行われる。Aクラスに出場するチームは強豪チームで、Bクラスはそこそこチームで、Cクラスはそれ以下のチームという事になる。 私たちは尾道・因島歯科医師会合同チームとして参加したが選手は全員尾道市歯科医師会の会員である。クラスはCである。3年前まではBクラスにいたのだが負けてCクラスに降格した。サッカーJリーグ並みである。毎年そのクラスの下位2チームが下のクラスに降下し、下のクラスの優勝チームと準優勝チームが昇格していく。但しCクラスは降格することは無く、昇格のみが有る。しかもCクラスはトーナメント方式では無く、2試合してその得失点差で順位を決定する。昨年は2勝したにもかかわらず3位に甘んじ昇格できなかった。 尾道・因島チームもかってはAクラスにいた事もある。しかし若手の入会が無くだんだん会員が高齢化し、出場選手にもこと欠くあり様が続いていた。しかし昨年、今年と30代の若き先生方が4名入会し活気が出て来た。尾道市歯科医師会には入会する条件としてソフトボールをするというのが有り、否応なく練習をさせられる。7月に入会した私の息子も駆り出され試合をしていた。 今年は早い時期から練習し必ずBクラスに上がるのだとコミットして練習した甲斐があり、見事に優勝を果たしたのである。来年からはBクラスである。 私は丸1日応援し、最後に、チームを代表して表彰状をいただくに栄に浴よくした。 毎年、試合後千光寺山荘で反省会を行うが、今年は祝勝会という事で大いに盛り上がり来年も優勝しようと全員で誓い合った。
2014年10月21日
今年ノーベル物理学賞を3人の日本人が青色LEDの発明開発で受賞した。非常に喜ばしいことである。3人の受賞者の内、現在アメリカ国籍を取得している中村修二氏がかって自分の発明の特許に対する会社の評価が少ないとして会社と係争したことは有名で、そのせいもあってか昨日(10日)の日本経済新聞に「従業員発明者の地位向上」と題した一文が掲載され、本日の一面には「社員の発明に報奨義務・特許は会社に帰属・競争力底上げ 法改正へ」と記事が掲載されていた。 中村氏の係争は2001年に元勤めていた会社を訴えた。彼の重要な特許に対し会社は2万円の対価しか払わなかった。しかしその特許を基に会社は1000億円以上の利益を上げた。そこで不条理を感じて提訴につながったと日経新聞に書いてあった。 東京地裁では特許の価値を604億円と認定した上で中村氏へ200億円の支払いを命じたが、東京高裁が和解勧告をし2005年1月に延滞金などを含めて8億4000万円で和解した。このニュースを聞いた時は本当に衝撃的であった。 というのも私は1971年〜1978年まで日立製作所に勤務し、日夜研究に励んでいた経験が有る。当時の事は可成り忘れたが日立では特許を書くと1000円か1500円位の報奨金が出ていた。その時、特許の権利を会社に渡す旨の誓約書に判を押していた。そして正式に特許となればその特許のコピーに贈呈と赤判が押され金一封で5000円程度のお金が貰えた様に記憶している。さらにその特許を使用して会社が製品を作り利益が上がると、毎年、年末に特許賞が発表され、特等から5等までの6段階位で表彰され幾ばくかのお金がもらえた。その後もその特許で利益が上がっている間はお金が振り込まれていた。 私が会社に勤務していた頃は、お給料を貰い会社のお金で研究しているのだから当然特許の権利は会社のものと理解して何も疑う事は無かった。 何回か引っ越しをしたりして手元に僅かばかりの資料しかないが特許のコピーが6件くらいに、5等の特許賞が3枚とお金の金額を書いた用紙が4枚ほどある。特に会社を辞めてもその特許を使って利益が出れば幾ばくかのお金を振り込んでくれた。開業した2年目の昭和62年に4000円を貰ったがそれが最後であった。
特許の有効期間は特許申請をしてから15年だったと思う。私が書いたものは全て特許切れになっている。 会社で研究していた頃は半期に何件特許を書くか、しかも特許の種類としては優特許・良特許・防衛特許と別れており、最低でも優特許1件、良特許2件くらいは書くと自己申告させられ、提出時に書いた特許を上司と話し合いランク付けをされて申請した。また期末には上司との面談で特許の件数や内容で勤務評定をされていた。 当時、私は書いた特許が製品化され、人様のお役に立つことに無上の喜びを感じ、またそれがひいては自分の出世につながるのだと思っていた。中村氏の裁判のニュースが流れた時は本当に驚いた。新聞記事によればその後日立製作所でも光ディスク関連で1億6300万円の支払いが命じられたとか。もっとも私の特許は会社と係争する程のものでは無くささやかなものだったと自覚している。中村氏の裁判が発明者の権利意識に一石を投じた事は間違いない。
2014年10月11日
10月4日に呉歯科医師会が創立100周年を迎え記念式典が挙行されたが、尾道市歯科医師会を代表して出席をした。尾道から呉に行くには三原から呉線に乗って行く手もあるが、時間が莫大かかるとのことで、広島まで新幹線で行きそれから呉線に乗り換えて行く事にした。 私にとって呉市は少なからず縁がある。私の父親が生まれ育った街であり、母もその父親が海軍工廠の技師であったため、一時住んでいたことがある。そのため本籍は両親が亡くなるまで呉市溝路町に置いていた。もっともその家は昭和20年7月の空襲で焼失してしまい、小学3年生の時に父親にその場所に連れて行ってもらったが今ではどこだったか分からない。 また私の父は公務員をしており呉勤務の時、官舎が両城中学のグランドの横にあったことから、私が広大4年生の12月から卒業まで4カ月間を呉線で大学まで通った。当時はまだ電化されておらず、ディーゼルカーか蒸気機関車であった。その頃は国道のすぐ横まで海岸線が迫っていて、風光明媚な趣であったと記憶していた。ところが今回40数年ぶりに乗ってみて驚いた事がある。 まず広島・向洋駅間に「天神川駅」、坂駅と小屋浦駅の間に「水尻駅」、小屋浦駅と天応駅の間に「呉ポートピア駅」そして狩留家駅が「かるが浜駅」になっており私の知らない駅が3っも出来ていた。 そしてあれほど楽しみにしていた海岸の風景は国道の海側が多くの場所で埋め立てられ、さっぱり見えない。少し悲しい気分になる。良く利用した川原石駅はフェンスで取り囲まれ、呉港が良く見えない状態であった。まさに浦島太郎状態であった。 そんな感傷に浸りながら50分ほどの旅を楽しんだ後、呉阪急ホテルでの式典と祝賀会に出席した。 式典は厳かに行われた。大正3年10人の会員で創立されて100年、今では会員数130数名になっているとのこと。100年という時の重みを感じた。尾道市歯科医師会も後6年で100周年を迎えるが、今回の呉を参考にさせていただこうと思う。 祝賀会は一転華やかで、とりわけ呉歯会の会員の先生方の嬉しそうなお顔が印象的であった。また途中余興で琴庄神楽団の神楽の舞もあり賑やかで楽しく、美味しい料理とお酒をいただいた。 帰りはタクシーで広島駅まで帰ったが、呉道路という有料道路を利用したせいか35分ほどで着いた。
2014年10月05日