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木・日・祝日
沖縄の小学生の孫娘2人が夏休みなので尾道に遊びに行きたいと言う。お盆休みなら私も体が空くし、色々遊べて良いからという事でスケジュールを立てた。台風12号と11号が幸い抜けてくれて良い選択だったと思った。 14日の午後3時過ぎに広島空港に到着。小学3年生と1年生の孫二人が「ANAキッズらくのり」サービスでやって来た。受書にサインをして無事引き取る。良く日に焼けて元気いっぱいである。空港から我が家に連れて帰る途中、お盆ということで墓参りをする。こういう事は今のうちから習慣づけておけば尾道に来る度に墓参りをし、御先祖様ひいては私が墓に入った時も会いに来てくれると思う。 丁度二男一家と、二男の嫁の御両親が尾道に来られていたので、夜は一緒に食事会をする。 その後家に帰っても孫達は大はしゃぎである。翌日は昨夜からの雨が少し止んでいたが、あまり天候が持ちそうにないので戸外は駄目と判断し、神辺のフジグラン内にある映画館に映画を観に行くことに。お盆で観客が多いと思い電話にて予約をする。映画は「ポケモン・ザ・ムービーXY」と「スタンド・バイ・ミイ ドラえもん」の2本を見る事にした。こんな時でないと「ドラえもん」の映画など私は観る事もない。 出かけてもうすぐ到着という所で下の孫娘が車の中で嘔吐、頭に手をやると少し熱が有るようだ。匂いが充満するので車を止めてシートを拭いたり、孫娘の洋服を脱がせたりして、とにかくフジグランにつく。急いで洋服を買い求める。「映画はどうする」と聞くが上の孫娘は絶対に観ると言うし、下は中々判断できないようだった。映画館前まで行くと観ると言うのでそのまま観る。最初「ポケモン」を観た。3つの話が有ったように思うが最後の「破壊の繭とディアンシ―」はある程度筋が理解できたがセリフには中々ついて行けない。 終わって「次はどうする」言うと下の孫は、はっきりしない。とりあえず予約をキャンセルしたが、上は絶対に観ると言い張る。その内、下も観ると言うので入館する。結構おもしろかったのか、下の孫娘も笑ったりして楽しんでくれてほっとする。 家に帰った頃から熱が出て耳が痛いと言い始める。計ると37.5℃、この程度で小児救急に行っても良いのか迷う。とりあえず解熱鎮痛薬を飲ませ家内は氷枕をしてやる。朝からほとんど何も食べていない。夕飯は手巻き寿司をしたが、1本食べただけであまり食欲が無い。 飛行機に乗ると子供の場合中耳炎を起こす可能性が有り、過去にもなったことが有るので、抗生剤を飲ませ解熱鎮痛剤を飲ませて寝かせる。明日もしもひどくなれば救急に連れて行こうと話しながら寝さす。私も家内も子育てから遠ざかって30年以上経ち、しかも自分の子供では無いのでどうしたものかと迷う。沖縄の息子に電話したり、向こうからも心配でかけてきたりする。夜中、家内は何回か氷枕を替えたりしたようだ。朝起きて熱を計る。だいぶ下がっていたがまだ微熱がある様だ。 新聞で今日の救急当番医を探すが尾道は16日には当番医が無い。また市の広報を見たがやはり書いてない。どこかがやっていると言う事かも知れないが、探すに探せない。孫娘の状態は快報に向かっていたので良かったが、この辺りを考えなくてはならない。 雨も降るし、病気にもなった事で結局どこにも行かず、孫達はTVと子供の患者様のために用意しているアニメのDVD三昧であった。それにしても大事に至らずほっとする。 翌17日の11時45分発の沖縄行きに乗せてやっと肩の荷が降りる。ある意味とんでもないお盆休みであったかもしれない。孫達も映画を観るためだけに尾道に来たと言う思い出しか残らなかったかもしれないな。 世間では「待って良し、来て良し、帰って良し」であるが、家内が「待って良し、来て良し、帰って良し、当分来なくて良し」という。親が付いて来て居れば問題ないのだが、子供たちだけだと、気を使いおろおろするばかりであった。でも孫の顔が見れて良かった。
2014年08月18日
まもなく69回目の終戦記念日がやってくる。このところ新聞やTVで色々特集を組んだりしているがその扱いに少し疑問が湧く。戦争は自分から絶対にしてはならないと思うが、仕掛けられたらどうするのか?69年前になぜ戦争をしたのかその戦争の本質は何だったのか、あるいは敗戦によって日本はどのように変化して行ったのか色々考える事が有る。あまりにも一方的な報道の仕方には、ほんまかいなと思ったりする。 ところでこの本は今年1月致知出版社から発行され、著者は高橋史郎氏である。 この本のカバーには「戦後思想とか戦後教育の問題は、すべて占領軍の目を気にしたおびえのような自虐意識からうまれています。その原点をきちんと実証的に解明して「それは誤解である」ということを世界に向かっても日本人に向かっても明らかにして「日本を取り戻し」たいというのが、私が本書を書いた一つの目的ですとある。 著者は占領文書250万ページを読破して明らかになった占領政策を色々の観点から検討している。それにより我々が如何に義眼でものを見ているのか理解できた。 この本の14ページから16ページに次のようなことが書いてあり、いみじくもこの本の内容を簡潔に表している。引用してみる。 「尾崎一雄という小説家の『虫のいろいろ』という作品の中に「蚤(のみ)の曲芸」という話が出てきます。 ノミは小さな虫ですが、自分の背丈に比べると ケタ外れに長い距離を飛ぶことができます。 だからノミに曲芸を仕込むのは至難の業です。 そこで曲芸師はどうするか。 最初はノミを小さな丸いガラス玉の中に入れるのです。 ノミはガラス玉の中で得意の足で跳ね回ります。 しかし、周囲は固いガラスの壁ですから、いくら頑張ってもそれ以上高くは飛べません。そのうちノミは跳ねることに絶望し、やがてガラス玉の中だけが自分の世界だと勘違いして飛ぶのをやめてしまいます。 そうなったところで、曲芸師はノミをガラス玉から取り出します。しかし、自由な世界を与えられても、ノミはもう飛ぼうとしません。飛ぶことを忘れてしまっているのです。 曲芸師は飛ばなくなったノミに芸を仕込んで、ようやく舞台に出すのです。 この話を読んだとき、私は同じことが戦後の日本に、そして今の子供たちに起きているのではないかと思いました。 たとえば、今は「引きこもり」や「うつ」など、生きる力を失っている子供が増えています。 少年非行にしても、昔はエネルギーがありあまってそれを外に向けて発散するような形のものが多かったのですが、最近は「本当にこの子が事件を起こしたの?」と思うような子供が事件を起こしています。 私はこうした子供たちを「心のコップが下を向いている」といっています。内側にこもって、自分の小さな世界から外に出ることができないのです。 なぜそういうことになるのでしょうか。原因はいろいろ考えられますが、親子関係でいうならば、親が子供に否定的な言葉を投げかけ続けることによって、こういう子が増えています。 これを「やっつけメッセージ」といいます。「お兄ちゃんはいい子なのに、あなたは何をしているの。「早く、早く、早く」という否定的な言葉のメッセージです。毎日こうした言葉を投げかけられた子供は心にフタをしてしまいます。 その結果、本来備わっているはずの「発達力」や「生きる力」を引き出せないまま成長してしまうことになります。
これを日本の国で考えるならば、フタをしたのは占領軍の「ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム」でした。 「日本人に戦争犯罪の意識を刷り込む情報宣伝計画」のことです。 このウォー・ギルド・インフォメーション・プログラムを日本人に対して行う源流となったのは、ルース・ベネディクトの著した『菊と刀』に代表される「日本人の国民性」論、日本文化論でした。 それがそのまま占領軍の目になったのです。」 参照ここまで。 この本は資料をもとに真実が書かれており、そこにはアメリカによる日本人の「精神的武装解除」が徹底的になさ、弱体化した現在の日本人の精神構造が有ると思いました。 先日TVで日本、・韓国・中国の若者たちが討論している番組が放送されていましたが、韓国や中国の若者たちはそれなりに愛国心や韓国人や中国人としての誇りを持っているようでしたが、日本の若者は「自分はたまたま日本という土地に生まれただけで、日本国にも日本人たる自覚も無い」というような発言をしていました。まさにアメリカによる「ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム」の結果だと痛感しました。
感情論に流されやすい日本人にとって本当の日本人としてのアイデンティティーを取り戻すには一度読んでみる価値のある本では無いかと思います。 マスコミによる一方的な報道を鵜のみにしないで、他にも本当の歴史を知りたなという想いは募る。そして政府広報紙の後ろ向きの女の子に真実を語る事が出来たら良いなと思う。 先ごろ朝日新聞が従軍慰安婦問題の記事を削除しましたが、やはり確かな資料をもとにした報道がなされるべきだったと思います。
2014年08月13日
このほど阿部国治著・栗山要編の「新釈古事記伝」第1集から7集が致知出版社から4月に発行され早速取り寄せ今、4集目まで読んだ。 『古事記』は名前こそ歴史の授業で稗田阿礼の暗誦を太安万侶が漢文字に表したと習ったが、そこに何が書いてあるのか内容は全く知らなかった。大国主命と因幡の白兎の話が『古事記』にあるなんて想像だになく、お伽噺か民話かと思っていた。 「新釈古事記伝」は阿部国治氏の「ふくろしよいのこころ」が原典である。 「ふくろしよいのこころ」の中で、阿部国治氏は「『古事記』は大和心の聖典(ひじりのふみ)であって、また、大和心は人の心の中で最も純(きよらかな)心で、『古事記』はこの大和心の有り様を示しております。人の創る家、村、国の中で、最も純(きよらか)なのは、神の道にしたがって、神の道の現れとして、人の創る家、村、国であります。『古事記』はこの神のあり様と、神の家、村、国の姿と形を示している聖典であります。これほど貴い内容を持つ『古事記』が、現代においては、子供たちが興味を持つに過ぎないお伽噺として留まっているのは、間違いも甚だしいと言わなければなりません。こんな有様ですから『古事記』の正しい姿を明らかにすることは、いつの世においても大切ですが、現代の日本においては、殊のほか大切なことであります。・・(中略)・・・実に『古事記』というのは、汲んでも汲んでも汲みきれない魂の泉と言ってもいいと思います。」 昭和16年6月 阿部国治 と書かれている。 今から73年も前に著者が日本人の心・魂を嘆いていたことは、今はもっと大きな 嘆きになっていると感じられる。 これも戦後アメリカに敵対した日本の復活を恐れ、GHQが日本人の歴史や精神的なもの、あるいは剣道や柔道も含めて日本人の魂に関係する様なものを全て禁止し日本人の心のよりどころの抹殺を計った。そのためこの書物も絶版となっていたがこのほど阿部国治門下生の栗山要氏が編纂しなおし世に出た。 それぞれの物語は、「原文」、「書き下し文」、「まえがき」、「本文」、「あとがき」という形で構成されているが、私には「原文」の漢文字はほとんど読めない。「本文」は著者の心血を注いだ処でありこの「本分」が圧巻である。また「あとがき」は著者が心の中に浮かぶことをそのまま書いており、参考にして頂きたいとされている。 第一集では大国主命が荷物を入れた大きな袋を背負っておられるが、なぜ袋を背負う事になったのか、またその意味するところ何なのかをそれこそ本当の親切心、本当の愛の心、思いやりの世界を御示しになっている。「できるだけたくさん、他人の苦労を背負い込むことを喜びとせよ」と教えられている。 先日大相撲で豪栄道が大関昇進に当たって「これからも大和魂を貫いてまいります」と口上を述べたが、この大和魂こそ「袋背負いの心」だと阿部氏は書いておられる。 この「袋背負いの心」が今は少なくなり最近色々の事件が発生している。 本の帯に「私たちの日本は、高度成長期を経て、物質的には有史以来の繁栄を謳歌しておりますが、その反面、精神面が疎かにされ、精神復興の声が野に満ち満ちております。この様な状況下で、原始日本人の叡智と祈りに、心ある人々の目が向けられ始めました。」とある。 まさにこの精神的荒廃が殺人事件や、おれおれ詐欺等の犯罪をもたらしていると思う。教育現場でぜひ古事記を取り上げ、古来から受け継がれている大和心を未来に繋げて欲しい。
2014年08月03日