5日は朝から雨が降っていた。まずマルキン醤油記念館行く。味噌は自宅で今年は作っているが、醤油は今まで作ったことが無い。原料に小麦を炒って蒸した大豆と一緒に発酵させることを初めて学んだ。

また昔の醤油造りの道具等も展示してあり孫達にも良い勉強になったのではないだろうか。ここ小豆島に何軒の醤油屋さんが有るのか判らないが、結構電柱広告などに名前が有った。かなりの産地なのであろう。
その後私が一番楽しみにしていた、壷井栄の「二十四の瞳」の「岬の分教場」にいく。
木下恵介監督、高峰秀子主演の映画で昭和29年封切り、まだ私が小学2年生の時の作品であり、いつの頃その映画を観たのか思い出せない、大人になってTVで放送されたのを観たのかもしれない。でも強烈に印象に残っていた。映画では学校の前が砂浜で海に続いていたように記憶しているが、今では道路が有りその先はコンクリートになりさらに海は漁船の船だまりになっていた。この「岬の分教場」は昭和46年3月に廃校になったが、当時のままの姿が教室に残されている。

黒板には昭和46年3月24日の最後の日にか書かれたお別れの文章がそのまま保存されており43年前にタイムスリップした感じがした。また黒板の上の壁に薄く汚れてところどころ見にくくなっている歴史年表等も、保存されており、私が通った小学校にも同じ様なものが有った。当時年表に「飛鳥時代」とあったが「あすか」と読めなくて、「とぶとり」時代あるいは「ひちょう」時代と読んでいたことを思い出した。その他にも昭和46年当時の子供たちが書いた絵も貼ってあり、この地域の人や小豆島の人達の保存への思いが伝わって来た。さらに次の教室に行くと映画のスチール写真が貼ってあり映画のシーンを思い出させてくれた。


1・2年生の教室の教卓の上に紙芝居が置いて有り、小1の孫娘が最後まで紙芝居をしたり。小3の孫もオルガンを弾いたりと、随分興に乗っていた。それにしても木造の校舎は温かみが有り良いものである。

その後「二十四の瞳映画村」に行く。そこには先程見学した「岬の分教場」のレプリカが作られていた。これは田中裕子主演で「二十四の瞳」がリメークされて映画になった時のロケ用のオープンセットであるとのこと。田中裕子主演の「二十四の瞳」の映画が有ったのを初めて知った。昨年はTVドラマでもここを使って「二十四の瞳」が作られ放映されこのTVドラマは観た。この分教場ではボランティアの人たちが「二十四の瞳」のおはなしの紙芝居をされていた。
次の教室には木下恵介監督の映画ポスターが多数展示してあった。いくつかはTVの映画チャンネルで観たりして懐かしいものもあった。「喜びも悲しみも幾年月」もその一つで、この映画の最初の方に北海道の石狩の浜にある石狩灯台の話が出てくる。学生時代その灯台の近くに住んでいたのでその灯台は何度も見たことが有る。但し映画の時代の灯台とは違って無人だったように思う。

その他、壷井栄文学館にも立ち寄る。彼女の生い立ちや、執筆の様子、作品等が展示されており興味深く見学した。
小さい子供を抱えておりフェリーの時間等も考え映画村を後にする。
帰る途中復刻された銀色ボンネットバスとすれ違った。
昼食を取ろうと二男がネットで探した食事処に行くが、2時間待ちだとかというのでそのままフェリーターミナルに行きそこの食堂で讃岐うどんを食べた。今度は2番目に乗船し一路我が家まで帰る。
この度の長男の帰郷に際し、必ずお墓参りをするように厳命しておいた。次の日の6日には午前中の飛行機で沖縄に帰る事になっており、6日にはバタバタしてお墓参りどころではないと思い、夕方ではあったが全員で墓参りをした。

というのも、初めての男孫が誕生し、私の家の苗字を繋いでくるであろうから御先祖様に御挨拶させる必要が有った。これで念願かない御先祖様も喜ばれたであろう。
6日朝、空港まで見送りに行き、無事沖縄に帰りついたとのこと。3泊4日ではあったが随分と疲れた。昔から言われるように「待って嬉し、来て嬉し、帰って嬉し」であったかな?
家内は色々気を使い大疲れしたのではないだろうか?
それにしてもGW多くの観光客が来ていてどこもかしこも人で溢れていた。このGW
の経済効果たるやすごいものが有るのではなかろうか? |