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木・日・祝日
昨日、3月25日は誕生日であった。昭和22年生まれの私は66歳の齢を重ねた事になる。朝、医院の朝礼時に、従業員からお花とラゴステの靴下を贈られ、思わぬ事でびっくりした。 また沖縄の孫達からもおめでとうの手紙をもらう。さらに別便で沖縄の息子と嫁からはお花を贈られた。そして我が家にホームステイしたニュージーランドのJ子からは前日におめでとうの電話を、またマレーシアのS子とミャンマーのE子からはお祝のメールをもらい、一日中驚くことばかりで、嬉しかった。 ところで私が生まれた時のエピソードを、昔、母親から聞いたことが有る。尾道市向島町で生まれたが、当日は、大雪で15pほど雪が積もり、父親が産婆さんを呼びに行くのも大変だったらしい。それに比べ、今年は広島や尾道でも桜が咲き始め、TVニュースによると東京は桜が満開になったと放送していた。かなり温暖化が進んできているのではないだろうか? そういえば鎌倉時代の歌人、西行法師の歌に『願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃』というのが有る。如月とは2月を表すが、旧暦で考えれば今はまさに如月である。今年なら西行の願いを叶えられたのではないだろうか。 さらに母親の話によると、3月も終わり近くに産まれたので、同級生となる4月生まれの子供に比べ1年も差が有り可哀想だから、10日ほど誕生日をずらして届けようと思ったようだ。ところが、まだ戦後1年7カ月で多くの国民は食べるものが無く、政府からわずかな配給米があてがわれる時代であった。そのため世の中では着物などを持って農家へ買い出しに行き食べ物に換えていた時代でもある。しかし子供が生まれた事を役場に届けると1日に付き5勺(0.5合)のお米が余分に配給される。配給米をもらうために正直に届け出たと笑いながら話していた。私が可哀想という想いよりも、5勺の米に目がくらんだのが事実のようだ。 もしも届け出が遅らされていたら、次の学年になり、今の生活とは違った人生になっていたかもしれない。正しく届けてもらった事で、同級生の家内と知り合い、結婚し子供が生まれ、かわいい孫にも恵まれ良かったと思っている。今では両親の判断に乾杯である。 人生とはほんのわずかの差で右と左に別れるものだと実感している。
2013年03月26日
1月の終わりごろ、「平成24年度歯科医師の歯科医療功労に対する知事表彰について」と言う長ったらしい通知文が広島県健康福祉局から届いた。 初めさっと目を通した時は自分の事とは思わず、誰か尾道の会員が受賞されるのでそのお知らせを会長の私に連絡してきたものと思った。その後時間をおいて、もう一度文章を読みなおしてびっくり、宛名が「齊田健一様」となっており私宛の文章であった。 そこには「多年にわたる歯科医療活動のご功績をたたえるとともに、今後一層のご活躍を期待して表彰することになりました」と書いてある。 私にはそのような功績もないし全く身に覚えのない事でびっくりした。歯科医歴29年、ただ歯科医師としてその職責を全うし年月を重ねただけである。私よりもはるかに頑張っておられる先生方が多くいらっしゃるのに申し訳ない気がした。 広島県歯科医師会の会長推薦という事であるらしい。たまたま尾道市歯科医師会の会長をしている関係でいただいたものであり、尾道市歯科医師会の会員の先生全員を代表して頂いたものと思う。 当日(3月18日)は私を含めて4人の先生が受賞された。いずれも現在、郡市地区歯科医師会の会長か、以前会長をされていた先生方であった。県庁北館2階応接室で知事から一人ずついただいた。湯崎広島県知事の祝辞が有り、その後、たまたま私が一番年長という事で謝辞を述べた。 表彰式の数日前に県歯事務局から私が祝辞を述べることになっていると聞かされたが、何と述べていいやら判らず県歯の事務局にお願いしひな型を出していただいた。 この年齢になると謝辞を空で暗誦するなど出来ず、紙に書いて読んだ。それにしてもこのような晴れがましい席に出た事はほとんどなく、あがり症の私はすごく緊張し、終わったあと肩や腰がすごく凝っているのに気がついた。 これからも歯科医師として広島県民の歯科保健医療の向上発展を目指して微力を尽くし、精進して行かなくてはと思った。 ところで表彰式での段取りの良さに舌を巻いた。立つ位置、並ぶ順番、式後の知事を囲んでの記念写真の座る位置など全て県の職員が段取りしており、1分の無駄もないようになっていると感心した。おそらく知事が分刻みで行動されているのでそのようになっているものと思う。 私の話を聴いた佐伯区の後輩のY先生がお祝のお花を贈ってくれた。また義妹夫婦がお祝の食事会を開いてくれた。有難いことである。 なお表彰式の写真は県歯事務局より提供して頂いた。
2013年03月20日
昨夜遅くまで楽しく飲みながら話し込んでいたが、全員6時過ぎには起き出す。 これも年齢のせいかもしれない。一風呂浴びて全員でそろって朝食。「朝からこんなごちそうは食べないよな」と話ながら楽しんで食事。 豪華な朝食 その後、それぞれの列車の都合に合わせ三々五々、次回の再会を約して帰っていく。私の列車は上田駅13:16発の「あさま526号」少し時間的に余裕がある。 1時間半ほどで回れると言うので別所温泉観光スポットを訪ね、帰ることにした。 北向き観音 愛染桂 まず「北向き観音」に向かう。この観音様は南向きの善光寺の観音様と対になっており、両方に参拝すると願いが叶うとか。今回は無理なのでいつか善光寺の方に もお参りにいこう。この観音堂の横に大きなかつらの木の大木があり、「愛染桂」と言われている。川口松太郎の名作「愛染桂」はこの木からヒントを得たと言 う説がある。 安楽寺本堂を望む 国宝八画三重塔 次に行ったのが信州最古の禅寺「安楽寺」で創建は鎌倉時代にさかのぼる。 境内の奥には日本で唯一の八角形をした木造の三重塔が有る。パンフレットによると最近、用材の年輪年代測定により、伐採年は1289年と判明している。長野県では始めて国宝に指定され、中国宋時代の建築様式も見ごたえがあると書かれている。 常楽寺本堂 葉裏の願い文 次に訪れたのが常楽寺で先程の安楽寺と同じ慈覚大師の創建と言われている。ここには立派な「御船の松」の木が有り、また訪れた人が木の葉(木の名前が判らない)に願い事を書いていた。 石造多宝塔 地蔵群 またこの寺の奥には苔むした重文の石造多宝塔があり700年の歴史に耐えてきている。途中お地蔵さんが並んで立っており、これも絵になりそうであった。この常楽寺からは浅間山が晴れていれば見えるとのこと。今日は見れなくて残念。 別所温泉駅から上田に戻ってきたが、新幹線の出発まで2時間以上ある。あいにく雨が降り出したが、せっかくなので真田一族の上田城を観に行く。徳川の大軍を2度も撃破した城とは一体どんなのか興味深く観たが、普通の平城でここを落とせなかった徳川秀忠は関ヶ原の合戦に間に合わず遅参し、家康にこっぴどく怒られた逸話がある。 東虎口櫓門 樽茶室 真田神社 今は門と2個の櫓が残るだけで中には真田神社があり市民の公園となっている。 昼食はせっかく信州に来たのだからと駅ビルの中のそば屋で食べる。通常、私はあまりそばが好きではないが、今回食べた1杯490円の鴨そばは、つゆが美味しくなかなかのものだった。家内がお土産は「信州みそ」2キロだと言うので、何とか探し当て、従業員へのお土産としてお菓子を買い新幹線に乗る。 定刻に出発したのだが、途中高崎を過ぎて大宮までの間、風が強く砂塵が舞っており、視界不良、列車の中まで砂埃が入ってくる。最初黄砂で見通しが悪いのかと思ったが東京に近付くに連れひどくなり砂嵐のようであった。列車も10分ほど遅れて東京駅に着く。 煙霧 帰ってTVのニュースで都心では視界が2キロメートルくらいしかなく「煙霧」が発生したと報じていた。中国で発生する黄砂はこの何十倍もすごいのではと勝手に想像してしまった。 楽しい思いで多き同期会であった。幹事をしてくれた、現在茨城大学の教授をしているY君に感謝。
2013年03月14日
先日、1971年日立研究所入社の同期会が有り、信州上田の別所温泉に出かけた。同期会はほぼ毎年行われているが、5年前に出席して以来である。 私は歯科医になる前、7年ほど日立製作所に勤務していた。今回は7人しか出席せず少しさびしい気がした。 車窓からの富士山 長野新幹線 天気が良くて途中富士山が良く見えた、また信州だと言うので雪深いと想いきや、ほとんど雪は無く、軽井沢駅の近くの山に少し雪が残っている程度で尾道と変わりなし。心配しただけ損をした感じ。 軽井沢駅近くの残雪残る山 上田駅 ところで最近はJRの駅にも多くの女性駅員が勤務されていてそれほど珍しいものではないが、この上田電鉄別所駅には、はかま姿の駅員が勤務されており驚いた。 別所温泉駅 はかま姿の女性駅員 なぜ別府温泉かと言うと、同期のY君の実家がそこで玉屋旅館をしているといういきさつがある。しかし肝心要のY君は会議が有ってだめという事で欠席。 玉屋旅館玄関 今回の出席者 皆いいおじいさん 私を除いて出席者は、日立・水戸・東海村・東京と2年 前の東日本大震災を経験した連中で、当時の生々しい様子や、震災後の生活の不便さ、今でも職人不足で家の修理が終わらない事などを話してくれた。温泉につ かり夕食・宴会となる。お酒も入り、入社したころのこと、私が退社してからの同期の連中の生きざまなどを聴いていてそれぞれ頑張ったのだと思った。同期で 他界したのは一人だが、少し上の先輩たちの何人かはすでに他界されており、えーっと驚くことしきり。 会話で一番盛り上がったのは年金の話である。全員が60歳を過ぎ退職して年金をもらっている状態である。中にはまだ嘱託で週2〜3日勤務しているのもいた。色々の話が出た中で、私は二つの話に興味を持った。 東京のY君が1カ 月ほどアフリカのタンザニアに出張し、ついこの前帰ってきたばかりだという。タンザニアでは多くの人たちがなにも履かないで裸足で歩いている。しかし裸足 で歩きながら携帯電話やスマホしていると言う。そのアンバランスなギャップに驚いたと話してくれた。多分何千年もの間、裸足で歩く事が当たり前で、靴を履 かない事が恥ずかしいなどとは思わないのであろう。我々ならまず靴を買ってから、携帯電話と思うのだが、文化・発想の違いなのであろう。 アフリカでは電話回線を施設するよりアンテナだけで済む携帯の方が設備投資に金がかからなくスムーズに普及しているらしい。これからはタンザニアでは履物が売れるようになるのかもしれない。 また東海村のK君は日立市や東海村の教育委員会が退職者を集め理科クラブを組織し、小学校の理科の実験のお手伝いをしているとのこと。交通費と半日1000円という日当で、ほとんどボランティアだという。あの茨城地区には、ものすごい数の工学博士・理学博士等が退職して家で悠々自適に暮らしている。その人たちを活用し、子供たちが理科に興味を持つようにしているとのこと。 これからの日本を背負う子供たちが理科好きになれば、「もの造り大国」日本としては万々歳である。日立製作所の城下町だから出来ることかもしれないが、全国の自治体でもこのような事を行えば子どもたちの理系の学力も向上するのではないだろうか。 無言館正面 パレットの形をした石のモニュメント ところでJR上 田駅から、上田電鉄で別所温泉に行く途中、塩田駅で途中下車し、「戦没画学生慰霊美術館(無言館)」に立ち寄り見学した。この美術館の話は以前、神辺町出 身のソプラノ歌手「村上彩子」氏の歌を聴きに行った時、この美術館の話が出た。彼女が挫折しかけた折、この無言館を訪れ涙して挫折を乗り越えたと聞いていた。展示物は学徒出陣等で戦地に赴き二度と絵筆を持つことなく死んでいった若者達の遺作や遺品・手紙などであり、絵の横には家族のメッセー ジが添えられ、どれを読んでも家族や本人の無念さが伝わってきた。 それにしても現在の日本のあり様を彼らが観たならば、いかばかりかと思うだろうか? 続きはPART2へ
2013年03月12日
今月は私も家内も誕生月である。一緒に診療している二男が誕生日プレゼントだと言って、食事に誘ってくれた。私は今までシャツや、模型飛行機、ジグソウパズル、ネクタイと毎年、色々のものをプレゼントしてもらった。家内も色々してもらっているようだ。 今年は品物ではなく食事をすると言って、しまなみ海道の途中、愛媛県大島にある民宿「千年松」に連れて行ってもらった。何年か前に長男・二男家族を連れていったことが有る。 民宿「千年松」 「千年松」前のプライベートビーチ その民宿から見る風景は素晴らしい。ただ今回は春霞が立ちあまり遠くまで見えなかったのが残念である。民宿の前が丁度プライベートビーチになっており、対岸は今治市である。来島海峡を望むことが出来、大きな巨大船が通過していく。夏ならひと泳ぎしたくなるところである。 部屋から来島海峡を望む ヒラメや鯛のお刺身 正午に食事を予約していたようで、まず食事をした。 地元でとれた魚介類をメインにした料理は新鮮でとても美味しくいただいた。ヒラメは6キロの大物だったとか、タイやタコ、アジ、えび等のお刺身の他にイセエビ丸ごとのお刺身が出てきた。まだ生きており、孫はこわごわ、動くイセエビのひげや目玉を見ていた。私たちのお誕生日祝いだということで、イセエビには金泊が降りかけてあった。 イセエビのお刺身 アワビの踊り焼の素材 生きたアワビを鉄板で焼くアワビの踊り焼や、いかなごと野菜のてんぷら、メバルの煮つけ、さらにエビ・タイ・卵を焙烙のお皿で蒸し焼きにした水軍焼きも出てきた。他にもお料理が出たが覚えていない。またご飯は鯛飯で、お味噌汁は先程お刺身にしたイセエビの頭が入っていた。最後にデザートが出てき、日本料理のフルコースに大満足でおなかは満腹。 お風呂の入り口も石の門 ところで民宿に「満天の湯」という大きな風呂が有りそれにも入る。ここ大島は昔から花崗岩が良く産出し、いたるところに石屋さんが有る。お風呂も石の湯船である。露天になっている湯船は塩湯で、風に吹かれながら入っているととても心地よかった。また風呂場に階段があり、上がるとやはり湯船が有りそこからは来島海峡が丸見えで、行きかう船を見ながら入っていられた。普通の日の午後2時過ぎでお風呂には私と息子しかいなくて、のんびり自由に入れてこれも大満足。 左が塩湯の露天風呂 二階の風呂からの来島海峡 息子には少し散在させたようだが本当に良い誕生日プレゼントをいただいた。 有難いことである。
2013年03月07日