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12月23日の封切り当日に「聨合艦隊 山本五十六」を観に行った。昔、20代の頃、作家 阿川弘之氏の書いた「山本五十六」を読んだ事がある。その時、何か心に引っかかるものがあった。 映画のパンフレットには「誰よりも開戦に反対した男、太平洋戦争70年目の真実」と副題がある。 そのパンフレットのイントロダクションを引用させてもらえば、 『1941年(昭和16年)12月8日。その日、日本海軍による歴史に残る一大奇襲作戦、ハワイ真珠湾攻撃は決行された。作戦を立案し、指揮を執った男・・聯合艦隊司令長官山本五十六。日本が国を挙げてアメリカとの戦争に舵を切る中、命を賭して開戦に反対し続けた彼が、何故自ら真珠湾奇襲作戦により、日米開戦の火ぶたを切らねばならなかったのか? 確固たる信念でこの国の未来を見据え、家族を愛し、故郷長岡を愛し、日本を愛した山本五十六。その知られざる「真実」を半藤一利監修のもと、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ブーゲンビル島上空での非業の死まで、新たなる歴史観でダイナミックに描く超大作。日本が最大の危機に瀕した時代に、真のリーダーとして、山本五十六は如何なる戦いを続けたのか。開戦70年、今再び襲う未曾有の危機に、その思いを辿ることで、我々の未来を見つめ直す旅、それが「聨合艦隊司令長官 山本五十六」である。』
昭和の初期から太平洋戦争にいたるまでの世相を見ると、人びとは不況に喘ぎ、雇用の不安を抱え、大学を卒業しても就職も出来ない、所得格差が拡大し、そして総理大臣は短期間で次々に交代し、世の中は閉塞感で溢れていた。正に現代と同じ構図である。そんな中、閉塞感を打破するため、世論だといって三国同盟などの締結を煽り、戦争に向けて煽っていったのは他でもない、マスコミ・新聞である。 戦争はするべきでない。しかし歴史的事実を語らないで一方的に先の大戦が悪かったと判断するのは片手落ちかもしれない。私は決して戦争を賛美するものではないが、当時の世界情勢をも考えなくてはならないとも思った。そしてNHKが3年に渡って放送した司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもそうだが、何故日本が戦わなければならなかったのか、当時の国際情勢なども考えることが大事な気がする。 映画の中で「100年兵を養うのはなんと為か、ただ国を守らんが為」と五十六のセリフがある。正に国を守る、国民を守るという大儀が有ったような気がする。 また戦争を煽ることを至上命令とされている若い新聞記者に「目と耳と心を大きく開いて真実を見ろ」諭すセリフにも感じた。 今のマスコミは何か情報を取捨選択しすぎているのでは無いだろうか?ネット上の情報と余りにも違っている感じがする。例えば福島原発事故の放送に関してはかなり情報操作されていたことが今頃明らかになってきた。何かにつけてこのように偏向した報道ばかり接していると70年前と同じ轍を踏むのではないかと危惧する。 又現代は、国民の中に国を守るという意識が希薄になって来ている。平和を希求することを考えさせられる映画であった。
2011年12月26日
12月1日からAFSの留学生としてオーストラリア・タスマニア出身のSが我が家にやって来た。私どもにとっては6人目の留学生である。彼女は今年8月に来日してある家庭でホームステイしていたが、ひょんな事から我が家にファミリーチェンジという形でやって来た。急なことだったのでこちらの受け入れ態勢も中々整わない。 タスマニアと聞いて私が知っているのは蕎麦がタスマニアで栽培され、日本に大量に輸入されていること、またタスマニア牛として日本の会社が牧畜を行い、これまた日本に輸入されていることぐらいしか知識が無い。 日本語での会話はかなり出来るので、英語の苦手な私達には助かる。まだ我が家に来て日が浅いのと彼女の高校のクラブ活動の忙しさで余り話すチャンスも無い。朝練だと言って7時には家を出て、帰ってくるのは21時前後、晩ご飯を食べてお風呂に入って寝るというパターンなので、まだ日常生活ではお互いにぎこちなく、遠慮がちになる。 日本に来た目的を聞いた所、 日本語を習得したい。 日本のことを知りたい。 友達を作りたいと言っていた。目的がはっきりしていることは良いことである。 日が浅くて接する時間が短いが非常によい子である。彼女の性格は非常におとなしい。しかし芯の強い娘のようである。今の日本人の若者には無いような感じがする。 先日、1週間程度の日程で尾道を訪れた短期留学生を迎えて異文化交流会がAFS備三支部主催で行われた。私も途中少しだけ参加させてもらった。各自、それぞれ出身国の料理などを持ち寄っての交流会で、Sは前日、私の孫達とクッキーを焼いて用意をした様だ。 当日は歓迎の言葉を流暢な日本語で話していた。物おじしない堂々としたものであった。またその会場には、AFS備三支部の今までの歩みなどが掲示されていた。かって我が家にホームステイした留学生などの写真も貼ってあり懐かしかった。 留学生を引き受けるのは5〜6年振りくらいだが、その間私も家内も歳をとったせいか、お世話をするのにも「よいこらしょ」と声が出る。Sから見ればあまり面白みも無い年寄り夫婦の所に来て少しがっかりしているのでは無かろうかと想像する。 来年の7月に帰国するまでの長丁場なのでこれから徐々にファミリーになって行かなくてはと思う。せっかくなのだからオーストラリアについて彼女から色々教えてもらい、いつの日にかオーストラリアやタスマニアを訪れたいものである。
2011年12月20日
11月末に尾道市歯科医師会の重鎮であられた『O』先生が突然にお亡くなりになられた。私としては少し心にぽっかり穴が空いたようで、さびしい感じがしている。 『O』先生は私が歯科医になるきっかけをアドバイスしていただいた、ある意味私にとっては大恩人である。30歳の時会社勤めをしていた私は、風邪を引いたが重要会議や研究やらで会社を休むことが出来ずついにダウンしてしまう。その時初めてこのままサラリーマンをしていて良いのだろうかと悩み、なんとなく医者になりたいと思った。 そう言う時、たまたま『O』先生とお知り合いになり、自分の考えを言ったら「医者になるより歯医者になったほうが良い、6年間勉強して更に研修をしていたりすると開業までに長時間を要する。君の年齢ではリスクがある」と仰られた。即座に歯科医になる決意をしたのである。 その後歯科医になり、尾道市歯科医師会の会員となって現在地に開業した。 当時は開業するに当たって必ず開業披露宴があり、口上を述べたりするのが常であった。暴力団の襲名披露に近いところがあった。私のように医科や歯科とは全く関係の無い家に育った門外漢にとっては、視るもの聞くものが初めてで緊張の連続であった。だからこそ『O』先生は色々と私を気遣って教えて下ったようである。 例えば宴会でお酒を注ぎに行くのも礼儀がある。今でこそエイズなどが感染するといって勧杯をする習慣は廃れたが、私が入会した頃はまだまだ勧杯が主流であった。今頃の若い人は目上の人にどうぞといって直ぐお酒を注ぐが、本当は若い人が目上の人にまず「お流れ頂戴します」といってお酒を注いでもらい、それから返杯するのが儀礼である。こういうことも初めて『O』先生に教わった。 また宴会の後など2階から階段を降りて帰るときでも目上の人より先に下りると『えらくなったのー』といわれたり、後から降りると『俺を見下ろすのか』といわれたりした。こうなるとどちらが良いのかわからないが、要するに相手を気遣い声がけをしながらその場の雰囲気で判断せよと教えていただいたのだと思った。 色々の場面で私が恥をかかないようにそれとなく教えていただいた気がする。『O』先生にとって私は目の離せない乳幼児の様な存在だったのではなかろうか? そんな私が今年、尾道市歯科医師会の会長に就任した時、『O』先生は自分のことのように喜んで下さり、会長としての心構えまで伝授していただいた。 そんな私が『O』先生の葬儀に当たり、尾道市歯科医師会を代表して弔辞を読むことになろうとは思いもよりませんでした。今にして思えば先生が私に歯科医師になるようにアドバイスしてくれた時から、弔辞を読むことは宿命で決まっていたのかもしれない。そういう縁が有ったのだと思えてならない。『O』先生の御霊が安らかなれと御冥福をお祈り申し上げ、御遺族の上に御加護を賜らんことを念じております。 合掌
2011年12月11日
先日とは言っても、もう3週間ほど前になるが、岡山県備前の旧閑谷学校の「櫂の木」の紅葉を見に行った。孔子廟の前に2本あり、向かって右が黄色、左が赤に色づく。例年なら一番綺麗な頃のはずなのだが、今年は異常気象なのか余り紅葉せずにすでにかなり散っていた。事務所の方にお聞きしたところ今年のような事はめったに無いことだ。 せっかく楽しみにしていたのに残念至極である。 櫂の木 閑谷学校講堂 ところがたまたまその事務所の前に、閑谷学校の講堂で論語の講義が受講できる、時間などについてはご相談くださいとの張り紙が目に入った。 せっかく来たのだし、その講義を受けるのも面白いと思いお願いしてみた所、OKとの事。 閑谷学校の講堂は国宝に指定されている。現在の講堂は元禄14年に出来たもので300年以上が経過している。その国宝の講堂に上がれるだけでもワクワクしてくる。最初、生徒は私と家内だけだったが、講師の先生がおいでになって、門から講堂まで歩いていく間に見物客等を誘って8人ほどになった。 講堂では、用意された靴下を今自分がはいてる靴下の上にさらに履き、わらで作られた丸い座布団の上に座る。床が黒漆で磨いてあるため、決して床に手を突いたりしてはいけないのだそうだ。 講師の先生が私達の前に向き合って座り、講義が始まる。よくTVや映画の時代劇の中の寺子屋のワンシーンとして出てくるあのスタイルである。 いただいたテキストを見ながら、先生の後について「子曰く、学びて時にこれを習う 亦た喜ばしからずや・・・・・」と大きな声で先生の後に続いて読んでいく。 恐らく300年前にも私が今座っている正にその場所で、誰かが同じようにやっていたと思うと自分自身が急にタイムスリップした感じになった。ひょっとしたら300年前にも私はここで論語を読んでいたのではないか? デジャビュを感じる。 小学校以来、大声で本など読んだりしないので、最初少し気恥ずかしかったが、慣れるに従い気分が爽快となる。 毎月私が読んでいる月刊誌「致知」の12月号の特集がたまたま「孔子の人間学」で、朝も一部記事を読んでいた。このタイミングのよさも、ある意味「縁」なのかも知れない。 論語に書いてあることを、政治家を始め今の日本人全員が実践したら本当に素晴らしい国に成るのではないかとおもう。 櫂の木には少しがっかりしたがそれ以上に良い思い出を貰った。
2011年12月07日