AM9:00〜PM0:45PM2:00〜PM6:20
木・日・祝日
最近中々映画に行けなかったのだが、この1週間に3本の映画を観た。 アカデミー賞最優秀主演女優賞に輝いたナタリー・ポートマン演じる「ブラック・スワン」。そのストリーをパンフレットから引用すれば「ニューヨークのバレエ・カンパニーに所属するニナ(ナタリー・ポートマン)は、元ダンサーの母親・エリカ(バーバラ・ハーシー)の寵愛のもと、人生の全てをバレエに捧げていた。そんな彼女に新作「白鳥の湖」のプリマを演じるチャンスが訪れる。だが純真な白鳥の女王だけでなく、邪悪で官能的な黒鳥も演じねばならないこの難役は、優等生タイプのニナにとってハードルの高すぎる挑戦であった。さらに黒鳥役が似合う奔放な新人ダンサー、リリー(ミラ・クニス)の出現も、ニナを精神的に追いつめていく。やがて役作りに没頭するあまり極度の混乱に陥ったニナは、現実と悪夢の狭間をさまよい、自らの心の闇に囚われていくのだった……。」 パンフレットにあるように試練と孤独、ライバルへの嫉妬、人間に秘められた二面性や変身願望が現実と妄想の映像として見事出されていた。総ては自分の心の持ちようということかも知れない。 アメイジング・グレイス」は、イギリスで「奴隷貿易廃止法」成立200周年を記念して製作された映画で実在の政治家ウィリアム・ウィルバーフォースの、奴隷貿易廃止のための戦いの模様を描いた物語である。 この映画の中で歌われる『アメイジング・グレイス』は彼の師ジョン・ニュートンが書いた詩である。ニュートンはもともと奴隷貿易船の船長をしており、彼の航海の最中、2万人の奴隷が命を落としたという。彼の悔恨と神への感謝から生まれた詩である。この曲に支えられながら奴隷貿易廃止のために活動した政治家ウィリアム・ウィルバーフォースの不屈の精神には感服した。そして美しい旋律の「アメイジング・グレイス」に心が安らいだ。 「SOMEWHERE」のあらすじはパンフレットから引用すれば「退廃的なライフスタイルを送る映画スター 、ジョニー・マルコの暮らしは、表向きの華やかさとは裏腹に、じつは孤独で空虚だ。ある日、彼のもとに前妻と同居する11歳の娘クレオをしばらくの間、預かることになる。騒々しい日常は一転、クレオとの楽しく穏やかな日々が過ぎていく。そして、再び離れ離れになる日が訪れるが…クレオと過ごした何気ない日々の時間の中に、ジョニーはやがて自堕落な生き方が置き去りにしてきた、大切な何かに気く。」 家族の絆や日常の何気ないものの中に本当の幸せがあり、一日一日の大切さを感じさせられた映画であった。
2011年05月26日
5月15日に「ホーム・アジア広島」設立50周年記念パーティが広島市留学生会館で有った。 広島市留学生会館 K君が持ってきた資料 ホーム・アジアと言っても御存じないと思うが、同期のK君が当時の新聞などの切抜きをコピーして持ってきてくれた。その資料の中の1961年7月10日の朝日新聞の記事によれば『1960年に国立教育研究所の矢口新氏のきもいりで「アジア諸国からの在日留学生と真のまじわりを結び、手をたずさえて諸国民の相互理解をはかり、アジアを一つのホームにする」ことを目的として「ホーム・アジア」が発足した。』とある。 そして1961年4月には「ホーム・アジア広島」が設立された。山陽新聞1962.5.22の記事によると『広島で学ぶ東南アジアの留学生に暖かい家庭的な雰囲気を与え、励ましていこうという第1回ホーム・アジア広島の会の集いが、21日午後2時から広島市平和公園記念館前の南国をしのばせるフェニックスの葉影で開かれた。』とある。また当時『広大にはインドネシア・香港・タイ・シンガポール・パキスタン・マラヤから7人の留学生がおり、工学部と医学部で勉強している』と書いてあった。このような行事に広大生が参加していたようで、そこから1962年に広島大学の中に「広島大学ホーム・アジア同好会」が旗揚げされたようだ。 当日のパーティ風景 私が広大に入学した1965年(昭和40年)にはかなり活発な活動をしており、記憶をたどると、三永の水源地に藤の花を観に行ったり、夏休みに可部の奥の柳瀬でのキャンプ、大学祭のときの「Asian Food For You 」というネーミングで留学生の出身国の料理の作り方を習い留学生たちと共に販売したこと、クリスマス会なども行った記憶がある。 1966年には中国地方や九州地区にいる留学生を広島に招待して「アジア留学生交歓会」を行った。ダンスパーティーをして資金を稼いだり企業訪問をして寄付を募ったりした。また九州大学や九州工業大学学生課に行き留学生が出席できるようにお願いしたりした。この交歓会は広島市長にも出席いただいた。K君の資料によると東南アジアからの留学生31名を含む総勢150人が参加したとある。そして日本とアジアの国の今後の有り方や交流の仕方について活発な議論が行われたと記憶している。 その後1960年代終わりの大学紛争(闘争)の最中、「どうべきあるか」と議論が高まり、結果として広島大学ユネスコ研究会と発展的に解消され、それも長続きはしないで自然消滅したとのこと。但し広島支部はその後も続き市民やボランティアに支えられて50周年を迎えることが出来た。本当に素晴らしいことである。 パキスタンのダラ・カビール君と 40数年後の仲間 私は大学卒業と共にホーム・アジアからは手を引いていたので、このたびの会合に出席して40数年ぶりに当時の仲間と再会をした。皆当時の面影を残しながら年を重ね、顔にはしわ、頭は薄く白い、この40数年の話に花が咲いたがそれなりに皆苦労をしてきて今日を迎えたようだった。 K君が持参した当時の写真を見ながら若かった時の勇姿をみて苦笑することひとしきり。 今にして思えば、ホーム・アジア運動に参加したことが、後年にAFS留学生のホームステイ先を引き受けることになったのだと思った。
2011年05月16日
5月12日尾道ケーブルTVの18:30からのOCTVニュースに生出演をした。テレビ出演は生まれてこのかた初めてである。 この4月から尾道市歯科医師会の新会長になったために新会長紹介だとのこと。10日に打診があり、歯科医師会の活動などを話して欲しいということであった。 私は人前で話すのに少し緊張するタイプなのだが、尾道市歯科医師会の為になると思い引き受けた。さっそく原稿を書いたり、その原稿がすらすら読めるように練習したが、いったい何分間の出演枠があるのかも知らされていない。 当日40分前にスタジオ入りをする。 「しまなみ交流館」の中にあるスタジオにはカメラが3台が備え付けて有り、カメラマンとアナウンサー、プロデューサーいた。音楽係りやミキサーはガラス張りの別の部屋に居た。 打ち合わせに入り、そこで始めてCUE―SHEETを渡され持ち時間2分30秒を知った。リハーサルでは書いた原稿が長すぎるとばっさばっさと削られ何とか2分30秒の枠に入るようになった。ニュース4本の後に出番であったが、その待っている間、少々落ち着かない。 それでも始まると何とか無事にこなせてホッとする。
尾道ケーブルTVのニュースは夕方18:30に1回だけ生放送されるが、後は録画を次の日の18:30の生放送まで同じものを5回ほど再放送している。 出来映えが気になり、帰って20:30と23:00の2回再放送を観た。 話の内容などは、そこそこの出来であった。それでも少し表現を変えたほうが良かった部分もあり、自分的には90点くらいかなと思う。 ところが一緒に観ていた家内の批評は「怖い顔で映っている。もう少しリラックスして穏やかな顔で無いと駄目だ」と手厳しい。 ところでそこに映っている己が姿を見て愕然とした。蝦蟇ガエルではないが己が姿の醜さに驚いたのである。 日頃、全くといっていいほど気付いていなかったが、正面から見ると、右肩が下がり、口角は逆に左側の方が上がり、両眉毛のラインは左に下がっていた。 この姿勢の悪さは一種の職業病であるが、あまりにもよく目立つ。 これからは診療時の姿勢に気をつけなくてはと思う。 更に決定打として、 最後にお礼で頭を下げたところ、頭のてっぺんの髪が薄く、あまりにも老人くさくなっており、歳は隠せないと愕然とする。 それでも、ともかく終わってほっとした。 何でも初めての事は緊張が付き物である。
2011年05月13日
さる3月11日の東日本大震災で福島第一原発が事故を起こしてまもなく2ヶ月となる。しかし未だに終息の見通しさえ立たない状況下にある。その中で昼夜を問わず復旧活動に従事されている、東電、下請け企業や、原発を製造したメーカーの人たちが過酷な環境下、死に物狂いで活動されていることに頭が下がる。
(写真は東京電力のHPより転載) この福島第一原発1号機が営業運転を始めたのは1971年3月のことである。私は同じ年の4月に日立製作所に入社をした。当時社内ではこれからは原子力産業の時代だと言われ、日立市にある日立工場(海岸工場)は活気に溢れていた。 夢のエネルギーといわれ、事故の事など少しも疑うことは無かった様に思う。 私は日立研究所に配属された。 原子力発電では原子炉や隔壁などはGE社から技術導入をしてある程度作られていたが、核燃料はアメリカからの輸入に頼っていた。そこで何とか燃料を国産化する必要があった。 ところで天然ウランの中には放射能を持つウラン235が0.7%しか含まずほとんどが無害のウラン238である。 当時国内では0.7%のウラン235を分離する技術開発が急ピッチで進んでいた。最終的に日本は遠心分離法を採用し、ガス状の六フッ化ウランから235を取り出すための遠心分離機の開発の真っ只中であった。ガス状の六フッ化ウランを遠心分離すると重い238が外側に軽い235が内側に集まってくる原理である。 配属された研究所での最初のテーマは高速で回転する遠心分離機の軸受けに注油するオイルの研究であった。通常の鉱物系のオイルだと放射線によりオイルが劣化し固形物が析出して回転が止まったり、場合によっては偏心回転になり、破損事故を起こすことが懸念された。そこで東海村の「動燃」(現在の核燃料サイクル開発機構)の実験炉で既存のオイルの暴露実験を行い暴露時間と析出物の量との関係を調べていた。更に文献調査を行ったりして、F素系のオイルがかなり良い結果を出したことを覚えている。しかし3ヶ月ほどで、新たな部門に配置換えになりその研究は途中やめとなったが、現在は何が使われているか興味はある。 私のオイルの研究と同時に隣の課では遠心分離機の胴体の開発をしていた。 遠心分離機は高速で回転させるため軽くて丈夫な胴を作る必要があった。 その材料としてカーボンファイバーを使用したFRPが特に研究されていたようだ。 今でこそ炭素繊維は釣竿や、ゴルフクラブのシャフトに使用されているが当時は非常に高価な材料であった。 これらの研究が成果を出したのか岡山県の人形峠で試験運転がされ、現在は青森県の六ヶ所村で大々的に燃料が生産されている。
(写真は広島県福山市鞆の浦、仙水島の9000万年前の断層)
新しい配属先ではガスタービン発電機のコイルの絶縁材料の研究をしたが、これもやはり原発関連の研究でもあった。 とにかく全員が国家プロジェクトの一翼を担っているという意気込みがあった様に思う。
結局日立製作所には7年しか勤めなかったが、少しでも原発関連の仕事に係わっていたことを思うと、今の福島の事故がとても他人事だとは思えない。 速く事故が収束し、避難されている人が1日でも早く自分のお家に帰れることを願うばかりである。
2011年05月07日
GWの5月1日、昨夜来の雨が心配されたが、孫が尾道港祭りの『ええじゃんSANSA・がり踊り』にでた。 幼稚園なので10時スタートだという。踊りながら道路をパレードして、途中三箇所の審査場所がありその都度元気一杯に踊るとのこと。 私と家内も例年昼ごろから出かけるのに今までになく早く、「港祭り」に出かけた。孫が出るというだけでこれだけ気持ちが高ぶるのに驚く。 東日本大震災を応援するために「尾道から元気を!!」というスローガンのもと、いたるところに義援金箱が設置されていた。 さすが祭り、出店や屋台も多くあったがその中でも、3月末まで放送のあったNHK朝の連続TV小説「てっぱん」で尾道のお好み焼きが有名になったせいか、例年になくお好み焼きの出店が多くあったような気がした。 こちら尾道では祭り一色であるが、一方東北地方では、新聞やTVなどの報道によれば未だに多くの人びとが避難生活を余儀なくされており、毎日命がけの生活をされている。日本中が自粛ムードでは駄目だという論調が新聞などに掲載されているが、やはり少し申しわけない気がした。 それでも孫の踊りをビデオに収めようと必死で追いかける。近くにやって来ると声をかけるが孫は聞こえても聞こえぬ振りで知らん顔をしている。 パレードが終わり最後に駅前広場のステージの上で踊った。 孫を追いかけるだけで結構しんどかったが、5歳の孫は踊って、パレードしてまた踊ったりしたのに、あまり疲れた様子も無く無事親元に帰ってきた。 一段と頼もしくなった孫の顔を見て相好を崩してしまう自分に気が付く。
2011年05月03日