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尾道市 福山市 三原市 さいだ歯科医院の治療の流れがわかります。従来の歯医者さんとは少し違っているかも知れません。
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お困りの症状が尾道市 さいだ歯科医院で解決できるかどうか分かります。尾道市さいだ歯科医院では歯科・小児歯科・予防歯科・インプラント・審美歯科・訪問歯科を行っています。
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スポーツマウスガード
ラグビー・空手・ラクロス・アメフトなどのスポーツにおける歯の脱臼、歯折、顎骨骨折防止のためのアイテムです。
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大先生の紹介

大先生(元院長) 齊田健一
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1947年(昭和22年)3月25日 尾道市向島町に生まれる。
1965年(昭和40年)尾道北高校16回卒業
1969年(昭和44年)広島大学工学部卒業
1971年(昭和46年)広島大学大学院工学研究科卒業
1971年(昭和46年)日立製作所日立研究所入社

1984年(昭和59年)北海道医療大学歯学部卒業
札幌市、福山市の歯科医院勤務
1986年(昭和61年)11月 尾道で「さいだ歯科医院」開業


1947年(昭和22年)歴史ある尾道市に生まれました。小学校は向島中央小学校入学、その3ヶ月後に、父親の転勤で三原小学校へ転校。4年生のときに、栗原小学校へまた転校と6年間で三つの小学校に在籍しましたが、当時いじめも無くすぐにその場に慣れていきました。
この身替りの早さが後の私の人生を変える原動力に成ったのかも知れません。

大先生(元院長) 齊田健一

両親

私の父親は戦前日立航空機と言う当時の花形会社のサラリーマンでしたが、終戦で会社が無くなり、止む無く公務員をしていました。呉に家がありましたが昭和20年の空襲で着の身着のまま焼け出され家財道具も無く無一文になっていました。
そのため当時の国民の多くがそうであった様に、その日その日を必死で真面目に生きていたようです。そのためか、私がどのような境遇でも生きていかれるように、父親は私を金銭面で特に厳しく育てたように思います。


それでも小学生の頃は休日にはキャッチボールをしたり、魚釣りや、自転車の後ろの荷台に私を乗せて仏通寺まで連れて行ってくれた記憶が有ります。
今にして思えばよい父親であったとおもいます。その父親も平成18年他界しました。


母親はごく普通の人でありましたが、私が悪さをしたりすると近所に謝りに行ってくれたり、いろいろなたとえ話をしながら、私が道に外れないように見守っていてくれたと思います。


 

両親

九死に一生

5歳のある夏の日の午後、近所の小、中学校のお兄さんたちに近くの池に泳ぎに連れて行ってもらった時のことです。私は今で言うビート板の代わりに洗濯板を持って行き、池の浅瀬で遊んでいました。
お兄さんたちはかなり離れた深いところで泳いでいました。


母親からは深いところに行かないように注意されていました が、一人ではつまらないのでそちらに行こうとして歩き出したところ急に深みにはまってしまいます。洗濯板は手からはなれ、体はどんどん水の中に沈んでいきます。
もがきながら「助けて」と叫ぶが口から泡がぶくぶく出て上のほうへ上がっていくのを今でも鮮明に覚えています。


どれほどの時間が経過したのかわかりませんが、気が付いたら池の土手の上に寝かされて人工呼吸の様なものをされていて、お兄さんたちの心配そうに覗き込む顔が見えたのをはっきりおぼえています。たまたま土手の上で服を着替えていた人が私がおぼれて水面に泡が出ているのを見つけて、皆で助けに来てくれたとのことでした。
家に帰る途中ずっと両親に怒られる事だけを心配していたように思います。


この時は命が助かった事の意味は解りませんでしたが、今から思うと神様が私に何か宿題を残したのだろうと思います。それが今の職業、歯医者としての使命ではないかと思います。
強運の星の下に生まれた事は確かだと思って感謝しています。


 

九死に一生

小中高時代

小学校4年生から転校する事も無く高校を卒業するまでごく普通の子供として遊びまくっていました。
アルミの鉛筆キャップでロケットを作って飛ばしたり、模型飛行機を飛ばしたりする事に熱中したりしていました。


中学時代は野球部に入って玉拾いをしていました。あまり野球の才能が無かったのか、2年生の秋の新人戦にレギュラーで出たのが唯一の公式戦でした。
高校時代は背が高いという事でバレーボール部に所属し楽しい部活に明け暮れていました。


高三で進路を決定する時に、日本は高度成長期の真只中、歯医者になる、医者になるという選択肢はまったくありませんでした。
中学2年生の夏休みの課題に理科の先生の指導を受け「毛細管による液体濃度測定法」というレポートをまとめ、子供発明展に応募したら入賞して楯をもらった事があります。それで化学が好きになっていたので、なんのためらいも無く広島大学工学部応用科学科に入学しました。


 

広大時代

親元を離れての一人暮らし少しは羽を伸ばした気がします。夏休みにザックを背負ってテントを持ってアルプスなどの山歩きに出かけた以外は、家庭教師と、勉強や実験にと4年間ごくまじめに勉強しました。


もう少し研究がやりたくて大学4年の春にもう2年間学校に行かせて欲しい。親にお金の心配は掛けないからと、父親を説得、大学院に進学しました。
ところが当時大学紛争が起こり、4月からの奨学金の支給が遅れる事になる。仕方なく当時のお金で5、000円を貸して欲しいと父親に申し出るも自分でやると宣言した以上自分でやれと突き放されました。


当時は、むごい親だと思いましたが、現在自分で事業をしていると、あの時の父親の判断は正しかったと思います。


 

広大時代

就職

大学院修士課程を卒業後、日立製作所日立研究所に就職した。そこで毎日研究開発に取り組んでいた。以前NHKテレビの「プロジェクトX」が放送されていましたが、そこにでてくる会社人間は正に研究開発の為、休み返上、寝る間も惜しんでの仕事振りである。私もそんな中にあって、サービス残業をものともせず仕事、仕事の毎日であったと思う。


入社7年目にかなりひどい風邪を引いたが会議や研究やらで、会社を休む事が出来ずついにダウンしてしまう。その時初めてこれで良いのかと思い、ついに会社人間から脱落。


 

再出発

なんとなく「隣の芝生は青い」の例えの如く、医者の仕事のハードさ、仕事の崇高さなど何にも考えないで、医者はよさそうだ医者になりたいと思った。


知り合いの歯科医が「その歳(30歳を過ぎていた)からでは6年間勉強して更に研修をしていたら開業が遅くなるから歯科医にしとき」の一言で歯科医になることを決める。歯科医としての使命感や意義など考えもしないでなんと軽はずみの決断か。
私自身、過去に一度だけ歯科治療を受けただけで歯科医の仕事がどんなものか知る由もない。


昭和53年当時はちょうど歯科110当番等があった時代で歯科はまだまだバラ色に見えていたような気がした。


歯学の勉強のため楽天的な妻と幼い子供二人を連れて北海道に渡ったのは風邪を引いた2〜3ヵ月後でした、親戚からお金の援助を受けながらの歯科大入学でした。
歯科大学では13歳も違う同級生との勉強で、家内と息子二人を抱えとにかく留年など出来ない「百尺竿頭進一歩」まさに「背水の陣」の気持ちで日々の勉強に追われる毎日であった。そのせいか6年間首席を通す事が出来た。


 

再出発

開業

無事6年間で卒業、歯科医師免許を取得し2年半の勤務医を経験した後39歳で開業にこぎつけた。何か遅れた人生を取り戻す事にやっきに成っていたような気がする。


ただ開業するに当たって理念はずっと温めていた。それは開業にあたって今まで直接、間接にご援助いただいたり声援をして下さった家族、友人、親戚、社会や周りの人々等に何とかお返しをしなくてはという思いから、「返仁」という額を家内の父親に書いてもらった。


「返仁」とは読んで字の如くであるが、「仁に返る」または「仁を返す」という意味でそれを院長室に掲げ日々の心の戒めとしている。


開業から数年は医院経営に追われ他に目を移す事など到底考えられず、とにかくがむしゃらであった。大企業に勤務していた経験から従業員に対してもかなり厳しい注文をつけていたように思う。
決して従業員から慕われるような存在ではなかったと思う。


そんな折、懇意にして頂いている歯科医の先生よりあるセミナーについて紹介され受講してみた。
このセミナーをきっかけに再度「返仁」の意味の問い直しをする事になった。


 

開業

トイレ掃除

今までは仕事はチームワークだ、従業員も私も同じ仲間だと思っていても経営者対従業員という構図が強く、お給料を払っている事だけで何にも仁を返していない事に気付かされる。


それでは何をしたら良いのかと思った時に、毎日待合室と従業員用のトイレ2ヵ所の掃除をしようと決めた。それも従業員が出勤する前、朝6時半から40分かけて二つのトイレを掃除して気持ち良く従業員を迎える事、そして毎朝出勤してきた従業員と「おはよう今日も元気で頑張ろう」と声がけをしながら握手をする事を決めた。


トイレ掃除を始めて数日経ったころ従業員の代表がやってきて「先生今まで私達のトイレ掃除に何か不都合が有りましたか、あれば教えて下さい」と訴えてきた。特に彼女等に落ち度が有った訳ではなく、ただ私も朝の準備に参加させてもらいたい。そしてその参加の形はトイレ掃除だと話し了解をしてもらった。


そんなトイレ掃除もはや21年が過ぎてしまった。前夜2時頃まで飲んで帰って来たときでも翌朝きちんと起きて同じ時刻に掃除をする。
正直言ってそんな時など辛いと思ったことも無い訳ではなかったが、何よりもトイレ掃除をする事が今では楽しくて仕方が無い。


トイレ掃除をしながら、まず今日も仕事が出来る職場があることに感謝できる。そして私が掃除をしたトイレを使用して下さる患者様や従業員がいらっしゃる。本当に有り難いことだと思う。「どうか気持ち良くお使い下さい、そして早く病気が治りますように」と口で祈りを唱えながら手を動かしていく。
そして何よりもトイレ掃除をするのにゴム手袋は使わない。素手で便器までピカピカに磨き上げる。この爽快感はたまらない。そして冬など掃除の最中に昇ってきた太陽の光が窓から差し込んできた時など、神々しさに満ち溢れ幸せな気分になれる。


開業して28年目になるが、歯科医歴の短い私にとって臨床の毎日が驚きであり発見である。とても患者様に仁を返す等と言うおこがましさは無く、ただただ誠心誠意尽くす以外に他に道は無い。
保険診療で何処まで出来るかが毎日の挑戦であり楽しみでもあります。


九死に一生を得た私に神様が託された、使命の意味と重さを考えながら、お口の健康を通して豊かな人生を提供すべく、日々研鑽に励みます。
これからも地域の皆様から愛され必要とされる身近な歯医者さんであり続けたいと思っています。スタッフともどもよろしくお願いします。


 

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