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私が毎月購読している雑誌「致知」5月号にウクライナ人で政治評論家アンドリー・ナザレンコ氏による『日本は独立を維持できるのか』国を侵略されたウクライナ人からの警告という衝撃の記事が掲載されていた。 彼の父親は祖国で柔道の道場を運営していた。彼は柔道をしなかったが自宅には日本についての本や映画が山ほどあり子どもの頃から日本文化に憧れ13歳の時にはパスポートを取ったらすぐ日本に行こうと決意し、2014年、19歳で来日、日本の大学を卒業し現在は日本の会社で働きながら言論活動を行っている。 来日以来一度もウクライナに帰ったことは無く日本と文化や価値観に共通点が多く強い親近感持つており「古事記」をウクライナ語に翻訳して出版もしている。「このように、日本の事が大好きな私ですが、唯一気掛かりなのが、安全保障や国防についての国民の認識です。母国が侵略された体験を持つ私からすると、日本の方々の考えの甘さや危機感の乏しさには、強い違和感を覚えるのです。」と書いている。 以下引用抜粋させていただく。 『ウクライナはかって独裁国家ソ連の領土に組み込まれていたがソ連崩壊後に民主主義を取り戻した数少ない国の一つである。17世紀に前身のコサック国家が成立したときも憲法があり、最高権力者が投票で選ばれていたと言う歴史もある。ところが親露派がロシアの圧力に屈して国の方針を不本意な形に転換したことで国民の反発が起こり首都キエフでおこった小さな学生デモを警察が武力で鎮圧したことで国民の危機感や怒りが爆発し反対デモは一気に百万規模に拡大、本人もこのデモに参加し十日間抗議活動をおこなった。大統領はここまで高まった国民の声に一切耳を傾けず、警察に命じて実弾を撃ち百人もの尊い命は失われた。まさに現在ミャンマーで起きているような状態だったのであろう。大統領は軍隊を送って鎮圧しようとしたが、軍隊がこれを拒否して中立宣言を出したため、大統領と国会議員の三分の一がロシアに逃げ込み無政府状態になった。そこへ侵攻してきたのがロシアでした。ウクライナとの国境を定めた友好条約があったにも拘わらずウクライナの領土であるクリミア半島とウクライナ東部を不法占拠したのです。幸い自分の出身市のハリコフ市はウクライナの領土として確定したのを見届けて来日したとのこと。 彼はさらに述べます。 侵略という恐ろしい体験をしてきた私は、日本の方が次のような発言をするのを聞いて非常に驚きました。「軍隊をなくして隣国の脅威にならなければ攻められない」「どんな争いも、平和を訴え、話し合いさえすれば解決できる」「集団的自衛権を認めたら、他国の争いに巻き込まれる危険だ」 こうした主張をする方々には、ぜひウクライナの辿った道を学んでいただきたいと私は思います。 ウクライナは核兵器を放棄し、百万人の軍隊を五分の一の二十万人に縮小し、大国の対立に巻き込まれないよう軍事同盟にも一切加盟しませんでした。さらに兵器をロシアに譲る代わりにブタペスト協定書という国際条約を結び、ロシア、アメリカ、イギリス、フランスがウクライナを守るという約束を交わしました。ところが、その当事者であるロシアによって侵略されたのです。 他国との条約がいかに当てにならないものであるか、そして国の防衛を他国に委ねることがいかに危険であるか。ウクライナの失敗が、この事をはっきりと物語っています。 条約が破られたら国際社会がなんとかしてくれると、期待している日本の方は多いようです。しかしウクライナが侵略を受けた時に、一緒に戦い、守ってくれる国は一切ありませんでした。当時のアメリカはオバマ政権でしたが、ロシアの侵略を口先で批判するばかりで具体的な行動は何も起こしませんでした。ウクライナばかりではありません。チベットもウイグルも香港も侵略や弾圧によって人々の自由が理不尽に奪われていることに対して、国連は批判こそしますが、行動は起こしません。尖閣諸島はアメリカが守ってくれるから大丈夫、というのも危険な考え方です。アメリカが追求しているのはあくまでも自国の国益であり、いくら同盟国の領土であっても、自国の国益には合致しない限り行動を起こすことはありません。 以前出会ったある日本の方は、自分の息子が戦争で亡くなるのは嫌いだから、アメリカ人が戦えばいいとおっしゃっていました。しかし、戦いもしない日本人の代わりに、アメリカ人が血を流して戦わなければならない道理がどこにあるのでしょうか。米兵にも家族があり、故郷があります。他国のために死にたいと思っている人など一人もいません。日本を守る主役はあくまでも日本人でありアメリカはその支援をする立場であることを忘れてはなりません。』 引用ここまで。 彼が危惧されていることは至極まっとうなことであり、私自身は日本に生まれ、日本人として育ってきたことに幸せを感じている。一朝事あるときには日本人としての勤めは果たす覚悟は出来ている。そのような事態にならないことを祈るばかりである。
2021年04月25日
4月8日はお釈迦様の誕生日(花祭り)で私と家内の結婚記念日でもあり良い日を選んで結婚したものだと思っている。今年で48回目である。結婚式は広島駅の北側にあった公立学校共済組合「せとうち苑」で挙げた。実家から式場に行くとき八丁堀を経由して行ったが三越広島店が本日オープンという垂れ幕が架かっているのを思い出す。当日は今日のように少し霞んだ青空で、式場の桜の花びらが風に吹かれて散っていたのを思い出す。 48回目の今日は、最初親戚の祝い事に家内と一緒に出かけたが、その後は別行動で畑に出かけ草取りに精を出す。結婚した当時はいつも一緒にいることが当たり前で有ったが、時間の経過とともに一緒に過ごす時間は短くなり休日でもお互い好き勝手をしている。まさに「綾小路きみまろ」のあれから48年である。 草取りをしながらその当時を色々思い出していた。結婚式の案内は当時、両家の親が連名で出すのが当たり前であったが、私たちは二人の名前で出し費用も親には負担をかけなかった。それで式が終わり全員をお見送りした後、結婚式・披露宴などの費用を全て支払い新婚旅行に出かけた。そのような話を息子達にしていたのか二人とも私たちの結婚スタイルを踏襲した。 新婚旅行は広島港からフェリーで大阪南港まで行き紀伊白浜、勝浦、伊勢神宮 鳥窒周りながら新居のある茨城県日立市まで帰って来た。家内が新婚旅行の日程表を忘れ、JTBのクーポン券を頼りに珍道中を続けた。新婚旅行中のお昼ご飯はカレー−ライスとうどんしか食べさせてくれなかったと後々まで言われたことなどを思い出した。 ところが今日はどういう風の吹き回しか2時頃、私が畑で倒れているのではと心配になったのか、コンビニでカツ丼弁当を買って様子を見に来てくれた。駐車場の桜は少し散っているが花桃は満開で、畑では芽を出してきたジャガイモ、勢いよく育っているタマネギ、ゴボウ、や2月の終わりに咲いた南高梅が早くも実を付けている。その他にもハナニラ、ローズマリー、スミレ、ポピーなどいろいろの花が咲いていて「本当に良い季節に結婚したね」と話ながら一緒に遅い昼食を食べた。
普通なら結婚記念日なので夜はレストランという選択枝も有るのだろうが、このコロナ禍外食は控える。しかも昼のカツ丼のボリュームが多すぎて夕食時にも腹は減らない。そこで軽くおそばにしてワインで乾杯する。ワインとおそばが合うのかと問われれば疑問符。私がグラスに2杯、家内が1杯飲んだだけで、後は栓をして冷蔵庫にしまう。三日ほどかけて残りを飲むようになるだろう。安上がりな結婚記念日の夕食となった。 食後、10年以上開いたことの無い「結婚式・新婚旅行」のアルバムを取り出し二人でにやけながら見た。お互い若かったね、美人だったね、ハンサムだったねと自分で自分を評価する。 その写真のなかに親族で撮った集合写真があるが、私や家内の両親も含めて多くの人が鬼籍に入られ、現在生きているのは私たちを含めて僅かに9人のみである。時の流れを感じた。 最近家内が良く口にする言葉に「私と結婚して良かったか?」と質問される。まずかったとも言えないし、100点満点ではないが概ね良好なので「うん」と答える。私は私で逆に「俺と結婚できて良かっただろう」と半ば強制的に「うん」と言わせている。そのようなやり取りが出来るのも48年間の夫婦の絆なのであろう。あと2年で金婚式だがその時はレストランでフランス料理のフルコースで祝いたいものである。
2021年04月11日